ラーマ・ラーヤの政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/19 23:08 UTC 版)
「ラーマ・ラーヤ」の記事における「ラーマ・ラーヤの政治」の解説
実権を握ったラーマ・ラーヤの基本政策は、王国内を安定させるとともに、バフマニー朝分裂後の北方のデカン・スルタン朝を互いに抗争させて弱体化させるというものであった。その一方、ラーマ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の軍勢の強化に努め、王国はインドにおける一大軍事大国となった。 まず、アフマドナガル王国とゴールコンダ王国がビジャープル王国に対する援助を求めた際、彼はポルトガル人との貿易協定でビジャープル王国への馬の供給を止め、その国力を削ごうとし、ライチュール地方を確保した。 1549年以降、ビジャープル王国とビーダル王国がアフマドナガル王国に宣戦した際、アフマドナガル王国を攻め、カリヤーニーを確保した。その後、ラーマ・ラーヤはビーダル王国の領土も侵略した。 1557年、ビジャープル王国がアフマドナガル王国を攻めた際、ラーマ・ラーヤはビジャープル王国と同盟を結び、アフマドナガル王国と同盟していたゴールコンダ王国を破った。このとき、ゴールコンダ王国の軍を破った弟のヴェンカタードリ・ラーヤは、同国の南部を占領した。 1559年、ラーマ・ラーヤはポルトガルのサントメ居留地を攻撃し、多数のポルトガル人住民を捕虜とするとともに、使徒の遺物数点を首都ヴィジャヤナガルに持ち帰った。その原因は、ポルトガルのイエズス会士がサントメ近郊のヒンドゥー寺院を破壊し、それを知った彼が激怒したからであった。 その後、ヴィジャヤナガルに連行された人々は身代金を支払い、ラーマ・ラーヤもこれを許して開放した。ポルトガルはこの一件で、ヴィジャヤナガルの強大さと、ゴロマンデル海岸における脆弱な立場を知ったのであった。
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