ラージプートとの同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
実権掌握後、アクバルはヒンドゥー教徒である北インドの土着勢力ラージプートとの同盟関係の構築を本格的に行った。ラージプートはアクバルが帝権を強化する上でも重要な存在であった。 すでに実権掌握前の1562年1月には、アンベール王国の君主ビハーリー・マルの娘と結婚し、アンベール王国と同盟が結ばれていた。また、彼のこれは実権掌握前の皇帝にとっては強力な支持者となり、マーハム・アナガに対する牽制ともなった。 1564年、ウズベク人貴族が反乱を起こした後、アクバルはそれまでのウズベク人とペルシア人からなっていた貴族層に頼らず、インド出身の貴族を新たに登用する必要性を確信した。それらはインド出身のムスリムとラージプートであった。 アクバルはラージプートとの同盟を特に重視し、彼らの娘を娶っていくことで次々と彼らを貴族に加えた。この政策により、1580年までに貴族の構成はペルシア人貴族が47人、ウズベク人貴族が48人、ラージプート貴族が43人となっていた。 このように、アクバルはラージプートとは基本的に融和的な態度をとり、大部分のラージプートを味方に付けることに成功した。ラージプートの貴族らは帝国に自身の王国の管理を委譲し、帝国の行政官に徴税を任せたため、事実上ラージプートの領土は帝国の領土となった。また、ラージプートはそれと引き換えに帝国から俸禄の支払いを受け、帝国と結びつくことで名誉と権威が得られた。
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