宮廷内の対立とアクバルの実権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/19 07:25 UTC 版)
「バイラム・ハーン」の記事における「宮廷内の対立とアクバルの実権掌握」の解説
その後、スール朝の残党勢力はムガル帝国に降伏したり、ベンガルやオリッサと地域へと向かった。バイラム・ハーンは権力を握ったが、ムガル帝国内部では対立抗争が始まっていた。 アクバルは執政バイラム・ハーンの補佐のもと統治を行い、彼のことを「バーバー・ハーン(父なるハーン)」と呼んで重用した。その反面、アクバルは皇帝を凌ぐほどの権力を持つ彼を内心恐れていた。また、ムガル帝国は宮廷ではスンナ派が多数であったにも関わらず、バイラム・ハーンは少数派のシーア派であり、彼が支持者やシーア派の者を高官に任じたことは古参の貴族から無視されていると非難を買った。そのうえ、タールディー・ベグを自らの判断で処刑したことも尾を引いていた。 アクバルがしだいに統治に対して責任感を持つようになると、バイラム・ハーン対立していくこととなった。対立の過程で、アクバルは母ハミーダ・バーヌー・ベーグムや乳母であり乳母マーハム・アナガ、乳兄弟アドハム・ハーンを頼るようになり、彼女たちはバイラム・ハーンの失脚計画を企てた。バイラム・ハーンはこのような状況でも傲慢で、あるときはアクバルの象使いに腹を立てて、独断で殺すようなことをした。 1560年3月、アクバルはマーハム・アナガらの知恵を借り、バイラム・ハーンの失脚計画を実行した。まず、アクバルはバイラム・ハーンとともにアーグラを離れて狩りに出かけ、マーハム・アナガはデリーにいるアクバルの母が病に倒れたとの嘘の知らせをアクバルに入れた。アクバルは病気見舞いを口実にバイラム・ハーンのもとを離れてデリーに向かい、バイラム・ハーンはアーグラへと戻った。また、ムヌイム・ハーンはマーハム・アナガの要請で、バイラム・ハーンがアクバルの代わりにミールザー・ハキームを利用しないよう、彼を連れてデリーに赴いていた。 だが、計画したのがマーハム・アナガだと分かった場合、彼女はバイラム・ハーンに報復される可能性があった。そこで、彼女はアクバルを一旦デリーの外に出させ、そこからバイラム・ハーンとのやり取りをさせた。こうして、アクバルはバイラム・ハーンの解任を宣言し、バイラム・ハーンもこれを了承し、クーデターは成功したのである。
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