実業界進出
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財界人や学者の意見を参考に実業界進出を決意し、1933年(昭和8年)3月に資本金300万円の南葵産業を設立(社長は山東誠三郎)。これを持株会社と位置付け、子会社として共立不動産、日本羽毛製品、東洋化工、全羅鉱業、南栄化学を設立した。新興産業に進出して独占的な事業を行うところに力を発揮したという。旧大名華族の産業進出の先駆とされたが、全羅鉱業に不正があるとして池田成彬に指摘されたことが発端となり、1936年(昭和11年)10月9日に旧藩出身者(杉山金太郎、寺島健、有馬良橘、野村吉三郎、濱口梧洞、濱口擔、島薗順次郎、上田貞次郎)の会合が水交社で開かれている。杉山と寺島が事実関係の調査に当たり、同年12月に頼貞が山東を罷免することで一応の決着を見ている。 1934年(昭和9年)に財団法人国際文化振興会が設立されると、郷誠之助と共に副会長に就任した(会長は近衛文麿)。1937年(昭和12年)1月25日、尾張徳川家の徳川義親や越前松平家の松平康昌、伯爵黒田清、大田実ら頼貞の友人を中心とする12名が男爵原田熊雄邸に集まり、紀州徳川家の財政再建に関して協議を行っている。1937年(昭和13年)、外部の動きに刺激された家職の中松真卿や土岐嘉平、林桂は代々木邸を分譲地として売却することを決定した。 1940年(昭和15年)、和歌山出身の三宅哲一郎元駐チリ特命全権公使が設立した日智協会(日本チリ協会)の初代会長に就任。 戦時中は第14方面軍の最高顧問としてフィリピンに約1年間の任期で派遣され、文化面を通じての宣撫活動に従事した。1943年には村田省蔵の比島調査委員会で副委員長に就任。マニラ郊外のラスピニャス教会(en:St. Joseph Parish Church, Las Piñas)にある世界で唯一とされる竹製パイプオルガン(en:Las Piñas Bamboo Organ)が適切に保存されていないことを憂慮し、マラカニアン宮殿の行政府長官ヴァルガスに面会してフィリピン人の手によって修理する必要性を力説。ヴァルガスは頼貞の提案に賛同し、修理費の大部分をフィリピン政府が負担することで合意した。しかし、一部は民間で負担しなければならなかったが、頼貞がマニラ大司教ロハティに協力を求めたところ、無事にロハティの協力が得られてカトリック信者からの寄付金も集まり、最終的には頼貞の俸給を全て寄付することで修理は軌道に乗っている。頼貞は修理の完成を見ることなく帰国したが、ラスピニャス教会の入り口には「This organ has been restored by Marquis Tokugawa of Japan(このオルガンは日本の徳川侯爵によって修復された)」と書き込まれているという。
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