衆議院議員当選
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赤尾は獄中で仏教、儒教、キリスト教などの書物を読む。1926年、高畠素之の一派と交流を深め、メーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、会長に上杉慎吉、建国祭準備委員に高畠素之、書記長に高畠門下の津久井龍雄、顧問に頭山満と平沼騏一郎を迎え、永田秀次郎の援助も受け、理事長に就任する。会の具体的な行動の一つとしては、1933年ごろに紀元節にちなんで新しい節句「梅の節句」を考案、神武天皇を最上段に祭った人形まで作られたが、広まらなかった。1937年の東京市会議員選挙に荒川区から立候補したが落選した。 大東亜戦争に関しては、赤尾は「アメリカと戦争するのは共産主義ソ連の策略に乗るだけである」として対米戦争に激しく反対した。このため右翼でありながら、戦時下の政府の国策に敵対する反体制派であった。 1942年の翼賛選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛、笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し妨害行為を行い、議場退場処分(同年6月16日)を受け、翼政を除名される。議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。1945年8月敗戦後、全土を巡って右翼活動と啓発講演活動を通い、敗戦を克服して再び立ち上がることを主張した。以降、連日東京・数寄屋橋で辻説法を行なった。
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衆議院議員当選
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兼松煕は万延元年12月28日(新暦:1861年2月7日)、美濃国加茂郡(現・岐阜県加茂郡坂祝町)の農家兼松勝介の長男として生まれた。頼山陽門下の漢学者村瀬乙太が木曽川対岸の犬山にて開いていた私塾にて学ぶ。21歳のとき郷里の戸長に選ばれた。 戸長から郡書記、次いで岐阜県属官となり、さらに中央に出て内務省属官を経て拓殖務省が発足するとその事務官に転ずる。その後台湾における鉄道建設計画に参加し実業界進出を志すが、計画自体が頓挫したため方向を転じ、佐賀県へ赴任して佐賀郡の郡長に就任した。在任期間は1899年(明治32年)1月から同年12月までの1年間であった。 郡長退任後九州における炭鉱事業の計画に参加するがこれも流れたため実業界入りを再び断念。その後1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙に際し佐賀県郡部選挙区から無所属で立候補して当選、衆議院議員となった。翌年の第9回総選挙では出身地の岐阜県郡部選挙区に鞍替えして2度目の当選を果す。議員在任中、日露戦争開戦前は「対露同志会」に参加し、開戦後は日本軍向けのたばこ輸出事業を思いつき利益を挙げたという。1908年(明治41年)3月任期満了となる。
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衆議院議員当選
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1917年(大正6年)10月、名古屋市会議員に復帰し、1921年(大正10年)10月まで1期4年務めた。その間の1920年(大正9年)5月10日に行われた第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認・愛知県第1区より出馬し当選、衆議院議員となった。衆議院では1921年(大正10年)12月に懲罰委員長、1923年(大正12年)12月に決算委員長に選出されている。また衆議院議員在任中の1921年時点では、石川鉄道(石川県)社長や東海道電気鉄道(名古屋市、社長福澤桃介)取締役にも名を連ねる。 1924年(大正13年)1月、立憲政友会が分裂して政友本党が結党されると同党に移る。同年5月10日実施の第15回総選挙では愛知県第1区から政友本党公認で出馬するが落選した。翌1925年(大正14年)10月、名古屋市会議員に4度目の当選を果たし、1929年(昭和4年)10月の満期まで1期4年在任した。その4年後の1933年(昭和8年)6月19日に死去、70歳没。
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