石川鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 13:22 UTC 版)
白山地域は木材や木炭、たばこなどの産地であり、貨物の需要が見込めることから、1912年8月予備役陸軍工兵大尉の木尾久雄ら8人により金沢市街六斗林から鶴来町を結ぶ軌間1067mm電気鉄道敷設を出願し、1913年4月鉄道敷設の許可が下りた。この計画には才賀電機商会の才賀藤吉も参加しており、技術供与や資金提供などが期待されていた。 ところが才賀電機商会の破綻により才賀関係者が手を引き資金の目処がたたなくなった。急遽他の出資をもとめた結果、愛知県の建設業栗田末松(栗田組)が参加することとなり、株式の過半は栗田関係者がもち、社長も愛知県在住の笹原辰太郎が就任し、1914年石川電気鉄道株式会社が設立された。 その間には鉄道用地の買収難、野々市村の路線誘致運動や松金馬車鉄道と並行線問題がおこり、路線の経路は二転三転したが最終的に国鉄野々市駅(現在の西金沢駅)に接続するように変更した。また不況の影響と資材の高騰から軌間1067mmと電化は断念し、軌間762mm蒸気機関車による方式にあらため、1915年6月に中古の蒸気機関車3両、日本車輌の新製の客車4両と貨車6両で新野々市駅(現在の新西金沢駅) - 鶴来駅間を開業し社名を石川鉄道と改めた。 1921年10月に金沢電気軌道が石川鉄道を買収しようとする計画が表面化した。ちょうど金沢電気軌道が金野鉄道を合併し電化改良工事をしており、石川鉄道を加えれば金沢市南部の物資を金沢市に移送することができる。また交通機関の統一のため石川県知事や鉄道省は合併容認の意向を示していた。県内株主達はようやく経営が安定したところで売却されることに反発したが、栗田をはじめとする愛知在住の大株主達は株式を金沢電気軌道に譲渡することとなり、1923年に合併が決まった。 輸送収支実績(石川鉄道)年度輸送人員(人)貨物量(トン)営業収入(円)営業費(円)営業益金(円)その他損金(円)支払利子(円)政府補助金(円)1915 80,675 1,192 7,787 4,987 2,800 1916 130,173 9,105 18,494 16,031 2,463 257 1917 153,255 10,696 26,632 23,006 3,626 雑損金813 4,018 4,554 1918 165,936 16,365 36,519 31,217 5,302 雑損金862政府補助金返納872 3,788 4,363 1919 204,052 20,105 59,237 41,587 17,650 政府補助金返納604 4,845 977 1920 207,196 20,629 77,954 45,505 32,449 雑損金38 9,835 1921 228,874 19,544 76,377 42,522 33,855 1922 281,380 23,796 91,180 43,313 47,867 鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料各年度版
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