郊外線の取得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 08:15 UTC 版)
1919年に第2代社長に就任した小塚貞義の下で、金沢電気軌道は市街電車経営という枠を超えた積極経営を展開した。新事業は一つが下記の電気供給事業、もう一つが金沢市周辺部における鉄道事業である。 前述の通り、金沢周辺では市街電車よりも先に郊外の馬車鉄道が開業していた。これらの路線も大正時代に入ると電化が進められ、金石への路線は1914年に電化され金石電気鉄道として、松任への路線は1916年に電化され松金電車鉄道として、それぞれ運営されていた。金沢電気軌道が開業した1919年の段階では、同社はこのうち金石電気鉄道との合併を進めようとしていたようである。だが両社の合併条件に開きがありこの合併は実現に至らず、連動して市内線第2期線にあった金石電気鉄道との連絡線建設は先延ばしにされた。 金石電気鉄道の合併に失敗した金沢電気軌道では、続いて松金電車鉄道の合併を目指した。この合併は、市内線第2期線に盛り込まれながら着工が見送られていた野町以南(有松町方面)を松金線で補完するとともに、市内線と郊外電車を直結して全体の利便性を高める狙いがあった。合併は1919年12月の株主総会で承認され、翌1920年3月25日に合併が成立した。合併に伴う増資額は22万円である。 4か月後の1920年7月15日、金沢電気軌道は金野鉄道を合併した。この合併による増資額は10万円。同社は郊外の北陸本線野々市駅(現・西金沢駅)と市内南西部を結ぶ馬車鉄道を運営していた事業者である。合併前の1919年に馬車鉄道から蒸気機関車牽引の軽便鉄道への転換を決定していたが、合併後、金沢電気軌道では金野線を1921年4月から1年半にわたり休止し、大規模な路線改良工事を施工の上電化鉄道へと転換した。 金野鉄道に続き、金沢電気軌道は野々市駅から石川郡鶴来町(現・白山市)へと伸びる石川鉄道の統合を目指した。名古屋方面の大株主から石川鉄道の株式を買収し経営統合へと進む考えであったが、当初石川県内の同社株主の猛反発に遭う。しかし鉄道省や石川県の交通機関統一を求める意向に沿って結局名古屋方面の株主は1922年末までに金沢電気軌道に対し持株を売却した。翌1923年2月28日、石川鉄道は臨時総会で金沢電気軌道へ63万7440円にて事業譲渡すると決定し、同年5月1日付で事業を移管した。
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