郊外移転の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 11:52 UTC 版)
もともと第二次世界大戦前から大手民間鉄道各社が沿線開発の一環として大学などの高等教育機関を招致する動きを見せていた。一番積極的であった東京急行電鉄(現・東急電鉄)は、旧制東京高等工業学校(現在の東京工業大学。関東大震災翌年の1924年に大岡山へ移転)や旧制慶應義塾大学予科(1934年に横浜市の日吉に移転。)、旧制東京第一師範学校(現在の東京学芸大学。1936年に目黒区碑文谷へ移転、現在は小金井市へ再移転。)、旧制府立高等学校(高等科の後身が東京都立大学 (1949-2011)、現在の東京都立大学(首都大学東京から名称変更)、1932年に目黒区八雲へ移転、現在は東京都八王子市南大沢へ再移転)などを沿線へ誘致している。 この施策によって郊外の地価の上昇などの成果が得られたため、第二次世界大戦後間もない頃から他の大手民鉄も追従することとなる。特に東京ではその動きが顕著であり、明治大学(1951年に生田キャンパス開設)や立教大学(1958年に新座キャンパス開設)、東洋大学(1961年に川越キャンパス開設)のように鉄道会社が自社沿線の郊外地域に土地を提供してそこへ大学が新キャンパスを設置する動きは存在していた。 これが顕著になるきっかけは文部省が1960年代後半から、都市部への大学の極度の集中を防ぎ、地域間格差を是正するため、東京23区内および大阪市周辺に本部を置く大学が昼間学部の学部・学科増設や定員の増加を申請してもこれを認可せずに抑制していく方針をとったことである。この方針は1975年に成立した私立学校振興助成法が設立するとさらに強くなり、首都圏既成市街地工場等規制法および近畿圏既成市街地工場等規制法の制定もあって、校地を拡張させて定員を増加させるなどといった方策は事実上不可能になった。この頃郊外ではニュータウン開発などが進み、都心部の人口増加には歯止めが掛けられたが、昼間人口は依然として増え続けていたため、大学の郊外移転を進めたいとする考え方があった[要出典]。 学部増設・定員増加を希望していた大学側もこの動きに乗り、1970年代前半から徐々に一部の学部や教養課程を郊外へ移転する大学が増えた。その中で1978年には中央大学が都心に本部を置いていた大学としては初めて大学本部も含めて八王子市に郊外移転(理工学部は都心部に残留)を実施した(現在の多摩キャンパス)。この動きに他の大学も追従、相次いで郊外へ全面移転する大学が現れた。国立大学でも国家プロジェクト的な郊外移転といえる筑波大学をはじめとして、蛸足大学状態解消を名目に、全国的に郊外の広い用地を確保した上での移転が目立った。 この動きは第二次ベビーブーム世代の急増期まで続き、この時期には、従前に郊外型キャンパスを設けなかった早稲田大学が埼玉県所沢市に新キャンパスを設け、慶應義塾大学が神奈川県藤沢市に新キャンパスを設けた。なお、最も新しい郊外移転として青山学院大学が2003年に世田谷キャンパスを売却し、理工学部を相模原市に移転させたケース(ただしこれは交通の不便な厚木キャンパスからより便利な相模原への移転と同時に行われた統合である)が挙げられる。こういった大学の郊外移転により多摩ニュータウン(京王相模原線沿線)の近辺、特に八王子市内にキャンパスを置く大学は増加し、現在では高等教育機関が23校存在し、外国人留学生約3,100人を含む約11万人の学生が学ぶ全国有数の大学都市となっている。 この結果、1990年代の一時期は、大阪市に存在する4年制大学が1桁になるという状況まで発生した。
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