郊外路線の開通から第二次世界大戦まで
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「デュッセルドルフ・シュタットバーン」の記事における「郊外路線の開通から第二次世界大戦まで」の解説
ライン川沿いの都市であるデュッセルドルフは、産業革命の恩恵に加えて近隣の町を統合した事により、19世紀初頭から後半(1870年代)にかけて人口が4倍に増加する程に成長した。この都市と隣接する郊外都市を結ぶ交通機関を運営する企業として、デュッセルドルフの実業家らによって「ライン川鉄道会社(Rheinische Bahngesellschaft AG)」、現在の「ラインバーン(Rhinebahn)」が設立されたのは1896年3月25日であった。この企業の設立目的はライン川に橋梁を通し、対岸の都市であるクレーフェルトまで電気鉄道を建設する事であり、1898年11月12日に橋梁の敷設が完了したのち、同年12月15日に全長22.2 kmの路線の営業運転が始まった。これはヨーロッパにおける最初の都市間電気鉄道(インターアーバン)でもあった。 開業当初は旅客輸送のみが行われていたが、1899年からは貨車を用いた貨物輸送も実施されていた。また1901年12月21日にはライン川を挟みデュッセルドルフと隣接するノイスへ向かう第2の路線も開通した。双方とも多数の利用客に恵まれ、クレーフェルト方面の路線だけでも開業2年目となった1899年の年間利用客が108万人であったものが、1904年には416万人に増加した。更に沿線の不動産業も盛況となり、これらの実績を受けて1907年以降デュッセルドルフ市も株を所得し運営に参加する事となった。 だが、第一次世界大戦の勃発によりこれらの路線網は労働力の徴兵や電力不足に直面し、メンテナンス不足による状態悪化により複数の車両が運用を離脱する事態となった。また、食糧不足を補うための配給物資の輸送も賄う事となった他、施設には臨時の調理施設も設置された。ドイツの敗戦に終わった戦後も混乱は続き、1919年には従業員によるストライキが勃発する事態も起きたものの、1920年代以降は経済の復興とともに都市間鉄道も再度発展を遂げ始め、ライン川を渡る橋梁が建て替えられ線路が専用軌道に改められた他、1924年からはクレーフェルト方面の路線で食堂車の運行も始まった。 更に同年代以降、デュッセルドルフの北に位置する都市・デュイスブルクと接続する都市間電気鉄道を建設する動きが起こり始めた。この両都市には1899年から1900年にかけて開通したデュッセルドルフ・デュイスブルク軽便鉄道(ドイツ語版)(Düsseldorf-Duisburger Kleinbahn)と言う路面電車路線が存在したが、利用客の増加に加えて施設の老朽化のため事故が頻発していた事から高規格化が検討されるようになった経緯を持つ。土地の買収などに手間取ったものの1924年から本格的な工事が始まり、1926年4月20日に営業運転を開始した。 しかし、第二次世界大戦の勃発はこれらの路線にも大きな影響を与え、徴兵による人員不足を補うため女性運転士の投入や連合国軍の捕虜の労働者としての投入も実施された。そして1940年以降デュッセルドルフは攻撃の対象となり、幾度となく勃発した空襲の中でも路線網の運行は続いたものの、1945年3月の空襲によりデュッセルドルフ市内は甚大な被害を受け、同年3月8日にこれらの路線網が全て運行を休止する事態に至った。 開業当初のクレーフェルト方面の電気鉄道(1898年撮影)
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