金沢電気軌道時代の経営とは? わかりやすく解説

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金沢電気軌道時代の経営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:40 UTC 版)

北陸鉄道金沢市内線」の記事における「金沢電気軌道時代の経営」の解説

金沢電気軌道市内線第2期建設並行して郊外進出推進しており、1920年3月にまず電車鉄道合併し松任までの松金線取得次いで1922年10月金沢市内と北陸本線西金沢駅を結ぶ路線金野線石川線)も整備した。さらに翌1923年5月には西金沢駅から先鶴来までを結ぶ石川線石川鉄道から買収している。その後1926年大正15年5月金沢駅前浅野川下流地域を結ぶ浅野川電気鉄道(後の北陸鉄道浅野川線)が開通市内線連絡した郊外線では金石町方面へ至る金石電気鉄道(後の北陸鉄道金石線)が唯一市内線から離れて立地していたが、1926年10月から白銀町起点中橋駅を結ぶ路線バスの運行開始され間接的に市内線との連絡果たした市内線乗車人員開業以来毎年増加し1925年大正14年)には年間1532万人1日平均約42000となったその後1930年までの5年間は1日平均4万人前後推移するこの間乗客増加車掌車内検札難しくなったことから値下げによる不況対策兼ねて1927年昭和2年2月均一運賃導入している。1935年までの5年間では乗車人員1日平均4万人毎年達しておらず、特に1933年昭和8年)は年間1284万人1日平均約35000人にまで落ち込んだ。これは当時不況影響を受けたもので、線路車両など施設の更新期が重なって電車収入だけでは配当できないほどの経営不振追い込まれた。ただ不況は他の業界も同様であり、造船不況渦中にあった藤永田造船所に半鋼製車両の価格見積もらせたところ1両7000円と予想より安くなったため車両購入決定した。これにより定期的な車体締め直し必要な木造車両一部鋼製車両に置換えた。 1931年昭和6年12月金沢電気軌道兼営路線バス事業開始した最初の路線金沢駅前市外寺井(現・能美市)を結ぶだけであったが、半年後の1932年昭和7年4月より金市内路線開設以後毎年のように市内バス路線拡充していった。ただしそれでも市内交通主力路面電車市内線)であり、バス電車補助する程度存在に留まっていた。なお1935年時点では兼営市内バス年間乗客数235万人1日平均約6400人)であった

※この「金沢電気軌道時代の経営」の解説は、「北陸鉄道金沢市内線」の解説の一部です。
「金沢電気軌道時代の経営」を含む「北陸鉄道金沢市内線」の記事については、「北陸鉄道金沢市内線」の概要を参照ください。

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