金沢電気軌道時代の経営
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「北陸鉄道金沢市内線」の記事における「金沢電気軌道時代の経営」の解説
金沢電気軌道は市内線第2期線建設と並行して郊外進出を推進しており、1920年3月にまず松金電車鉄道を合併し松任までの松金線を取得、次いで1922年10月に金沢市内と北陸本線西金沢駅を結ぶ路線(金野線→石川線)も整備した。さらに翌1923年5月には西金沢駅から先鶴来までを結ぶ石川線を石川鉄道から買収している。その後1926年(大正15年)5月、金沢駅前と浅野川下流地域を結ぶ浅野川電気鉄道(後の北陸鉄道浅野川線)が開通、市内線と連絡した。郊外線では金石町方面へ至る金石電気鉄道(後の北陸鉄道金石線)が唯一市内線から離れて立地していたが、1926年10月から白銀町と起点中橋駅を結ぶ路線バスの運行が開始され間接的に市内線との連絡を果たした。 市内線の乗車人員は開業以来毎年増加し、1925年(大正14年)には年間1532万人・1日平均約4万2000人となった。その後1930年までの5年間は1日平均4万人前後で推移する。この間、乗客増加で車掌の車内検札が難しくなったことから値下げによる不況対策も兼ねて1927年(昭和2年)2月に均一運賃を導入している。1935年までの5年間では乗車人員は1日平均4万人に毎年達しておらず、特に1933年(昭和8年)は年間1284万人・1日平均約3万5000人にまで落ち込んだ。これは当時の不況の影響を受けたもので、線路や車両など施設の更新期が重なって電車収入だけでは配当ができないほどの経営不振に追い込まれた。ただ不況は他の業界も同様であり、造船不況の渦中にあった藤永田造船所に半鋼製車両の価格を見積もらせたところ1両7000円と予想より安くなったため車両購入を決定した。これにより定期的な車体締め直しが必要な木造車両を一部半鋼製車両に置換えた。 1931年(昭和6年)12月、金沢電気軌道は兼営の路線バス事業を開始した。最初の路線は金沢駅前と市外の寺井(現・能美市)を結ぶだけであったが、半年後の1932年(昭和7年)4月より金沢市内路線を開設、以後毎年のように市内バス路線を拡充していった。ただしそれでも市内交通の主力は路面電車(市内線)であり、バスは電車を補助する程度の存在に留まっていた。なお1935年の時点では兼営市内バスの年間乗客数は235万人(1日平均約6400人)であった。
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