右翼活動
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児玉は1929年、赤尾敏が結成した「建国会」に入会。18歳で天皇直訴事件により服役。釈放後に津久井龍雄の急進愛国党に入会。1931年、日本主義陣営の統一組織「全日本愛国者共同闘争協議会(日協)」が結成され急進愛国党も参加(三月事件の民間動員計画)。児玉は前衛部隊の一員になった。国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし服役。1932年2月、釈放。同月9日、血盟団事件が起き、同日、警視庁は児玉を含めた国家主義運動の関係者を拘引した。釈放後、渡満。満州自治運動をしていた笠木良明の大雄峯会に参加。同年、帰国。独立青年社を設立し右翼浪人の岡田理平に誘われ頭山秀三(頭山満の三男)が主宰する天行会に出入りをした。頭山が逃げざるを得なくなり、後事を託された児玉、岡田、天行会のメンバー二人の四人で1932年、天行会独立青年社事件を起こす。当時は23歳だった児玉は3年半の判決を裁判で受けた。服役中にニ・二六事件が起きた。 出所後、笠木が編集発行する『大亜細亜』に関わる。1937年、笠木から紹介された外務省情報部長河相達夫より勧められ、中国各地を視察。上海副総領事の岩井英一(東亜同文書院出身)を知り、岩井が1938年に領事館内に設置した「特別調査班」の嘱託となる。岩井の推薦で、1939年4月に陸軍参謀本部の嘱託となりハノイにいた汪兆銘の護衛を任された。石原莞爾の紹介で支那派遣軍総司令部参謀の辻政信を知り、同司令部の嘱託となる。しかし東亜連盟の動きが陸軍の方針に反すると東条英機の逆鱗に触れたことで、児玉は嘱託を解かれ1941年5月に帰国した。
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