右翼政治運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:33 UTC 版)
第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年、大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。 配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子や三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。1961年2月の嶋中事件に関連、警視庁は愛国党の総裁の赤尾敏が背後にあると考え、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。 また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。 銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われる。
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