右翼思想への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:54 UTC 版)
上杉の学説を熱心に支持する学生達は国家主義の先駆けとなる木曜会を形成して右翼学生運動の源流となり、1918年に上杉の影響下でつくられた興国同志会は後に上杉の弟子竹内賀久治と太田耕造によって国本社と改めて平沼騏一郎や東郷平八郎ら軍や政財官界の有力者を担ぐ巨大な右翼団体となり、1925年に結成された帝大七生社はのち4人の七生社メンバーが1932年に起きた血盟団事件で犯行グループに参加した(このうち四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘は金鶏学院の塾生)。教え子の岸信介(木曜会・興国同志会会員)と安岡正篤に大学で自らの講座の後継者として残るようにすすめたが、両者は官界に進んだ。興国同志会会員だった蓑田胸喜は上杉と同じように機関説を排撃する国体明徴運動で名を馳せ、国体擁護連合会の中心的存在となった。また、上杉の教え子の中には、内務省の特別高等警察に務めた者も少なくなかったため、彼らを通じて上杉慎吉が主張した天皇像は治安維持法の定める処罰事項である国体(天皇制)否定の基準の一つにもなっていたといわれる[誰によって?]。
※この「右翼思想への影響」の解説は、「上杉慎吉」の解説の一部です。
「右翼思想への影響」を含む「上杉慎吉」の記事については、「上杉慎吉」の概要を参照ください。
- 右翼思想への影響のページへのリンク