三別抄の乱とは? わかりやすく解説

三別抄の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:40 UTC 版)

三別抄」の記事における「三別抄の乱」の解説

朝鮮半島936年成立した高麗中華諸王朝の冊封受けていたが、北方モンゴル系遊牧民契丹などの強大化した諸民族高麗へ侵攻するなど、辺境防備悩まされていた。高麗当初侵攻抵抗したが後に屈し契丹女真族金朝に対して入朝を行う。高麗では科挙制度の導入など国家体制確立させて対抗を図るが、文臣だけを優待したため、不満を持った武臣たちによる政変発生した。これを武臣政変といい、以後高麗武臣政権統治するうになる。そして1196年には、武臣崔忠献(チェ・チュンホン)が同じ武臣である李義旼(イ・ウィミン)を殺害し高麗実権握った崔忠献は自らの権力基盤安定化させるために王権弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制成立させる次代崔瑀(チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織統合され三別抄になる。三別抄崔氏政権維持するための私兵組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度変わって事実上国軍化していくことになったモンゴル諸民族統一して成立したモンゴル帝国1271年クビライによって国号大元とした)は、1219年高麗同盟を結ぶが、モンゴル高麗貢納要求などをしたことで両国の関係が悪化し1231年第一次高麗侵攻開始された。高麗軍各地苦戦強いられ1232年には開城放棄し漢江河口江華島への遷都余儀なくされるその後モンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗衰退一途をたどる中、金俊キム・ジュン)を主体崔氏政権対すクーデター勃発1258年崔氏政権滅亡する。この時、金俊協力してクーデター主力担ったのは三別抄希実であった政権奪取後、金俊モンゴル降伏したが、崔氏に続く武臣政権傀儡となった高麗王元宗は林衍文臣手を結び金俊からの政権剥奪画策1268年三別抄取り込んで金俊暗殺した。 しかし、林衍らは実権の掌握企図して元宗対立1269年には高麗王元宗を廃して政権掌握した元宗およびその世子王諶(後の忠烈王)の要請請けモンゴル林衍討伐のため進軍し林衍三別抄動員して抵抗するが、その最中急死した1270年5月林衍の子林惟茂(イム・ユム)らが国王側に雇われ三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝実権握り続けてきた武臣政権崩壊したモンゴル支援受けた元宗江華島から開城戻り武臣政権私兵集団として国内騒擾元凶ともなってきた三別抄に対して解散命じた。これに対して三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)・夜別抄の盧永禧らは宗室の承化侯王温中国版)を推戴し江華島本拠自立した6月三別抄政権西南珍島移り抗戦準備進めとともに全羅南道慶尚南道勢力拡大していった。この間1271年には日本鎌倉幕府救援求めたが、朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺されている。しかし、2月モンゴルから降服求められた際には、「軍を引き上げてくださいそうすれば服従いたします蒙古将軍忻都願い聞いてくれません。私たち全羅道くだされば蒙古朝廷直接したがいます」と返書をしたように、主要指導者である裴仲孫自身が、全羅道領土としてモンゴル隷属することを画策するなど、内部権力闘争表面化するようになり、自ら弱体化を招くことになったまた、モンゴルからすれば高麗王朝に度々反乱起こした忠誠疑わしい三別抄による武臣政権よりも、忠誠篤い高麗王朝自身による朝鮮の間接統治望んだために、降服条件折り合うこともなかった。この結果1271年中に珍島三別抄高麗金方慶(キム・バンギョン)・洪茶丘(ホン・タグ)らモンゴル連合軍撃破され、残党金通精(キム・トンジョン)に率いられ耽羅済州島)に落ち延び命脈を保つが、1273年には耽羅島攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧三別抄歴史閉じることになる。三別抄壊滅同時にモンゴル耽羅総管府設置、ここにモンゴルによる高麗征服事業完了したその後高麗元朝服属し、征東等処行中書省統治下に置かれた。新たに高麗となった忠烈王日本招諭のための使節派遣や、1274年からの日本侵攻元寇文永・弘安の役)に苦言を呈する蒙古諸将さしおいて積極的にクビライ侵攻進言するとともに軍船兵糧将兵提供した

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三別抄の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻」の記事における「三別抄の乱」の解説

しかし江華島からの退去従わない武人は、高麗首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力として反乱起こし珍島臨時政府合流してモンゴル抵抗したクビライはヒンドゥ(忻都)に5,000騎兵授けて金州駐屯させ、元宗三別抄討伐のための軍船を造らせる一方、後に2度元寇従軍することになる洪福源の子洪茶丘(ホン・タグ)にも兵を率いさせて屯田させた。 1271年この年からクビライ国号を「大元」と改める)アカイ率い第1次珍島討伐失敗に終わる。同年3月三別抄日本の朝廷に対して援軍兵糧求めたが、日本側では事態がよく理解できておらず、この要求無駄に終わった。同5月ヒンドゥ率い元・高連合軍珍島攻略しモンゴルとして初め海戦勝利して王温捕らえ斬刑処した。 なおも三別抄指導者金通精らは、属国耽羅国済州島)へ逃れて耽羅国王を追い出し籠城したが、ヒンドゥ軍12,000の兵は1273年軍船108艘に分乗して耽羅攻略三別抄勢力壊滅させた元朝耽羅総管府設置高麗征服事業完了した

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