武臣政権崩壊後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:04 UTC 版)
武臣政権の崩壊後、元宗は江華島から退去して開城に戻り、クビライを後ろ盾としてモンゴル帝国(1271年に大元と改名)の支配下に入った高麗王国を建て直す。以後、歴代の高麗王は恭愍王(在位1351年 - 1374年)まですべて、世子の時期にモンゴル宮廷に人質として赴き、歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、クビライ王家の娘を娶り、後に帰国して即位するのが慣例となった。 詳細は「三別抄」を参照 一方、崔氏政権の頃に整備された正規軍である三別抄は、反モンゴルの気風が強く、武臣政権崩壊に伴い解散命令が出てもこれに従わなかった。裴仲孫(ペ・チュンソン)は残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温を擁立して江華島を脱出し、朝鮮半島西南部の珍島を根拠として「高麗国」を自称して抵抗した(三別抄の乱、珍島政権)。三別抄の珍島政権はモンゴルの攻撃を受け、1273年に滅亡した。
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