武臣政権期の特色とは? わかりやすく解説

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武臣政権期の特色

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:04 UTC 版)

武臣政権」の記事における「武臣政権期の特色」の解説

武臣政権歴代権力者たちは、高麗伝統であった文班優位な官僚組織打破し実力本位風潮生み出したそれまで門閥化した文臣によって身分秩序固定化されていた状況に、抑圧されていた武人庶民の不満が噴出したためである。武臣政権軍事基盤も、(1)悪小・死士勇士などと呼ばれる浮動的な武勇者、(2)家僮呼ばれる奴隷身分従者(3)門客呼ばれる私的な家臣団など、権力者との私的な結びつき組織されたものが多く慶大升時代から見られるうになる武臣政権下の最大兵力「都房」は、これら3系統合わせていくつかの番に再編したもので、交替権力者守備する組織だったと見られる。都房の兵は共同生活し、長い大きな蒲団寝食を共にし、時には慶大升自身もこの寝たという。都房を拡大した崔忠献時代には、屈強兵士を6番の都房に編成し崔忠献私邸宿直する制度発展している。 武臣政権権力者たちは、身分的には低い出自から出発していた(李義旼の父は商人、母は寺婢。崔竩の母は私婢。金俊の父は私奴であり、金俊自身も元は崔氏の奴隷であった)。また、彼らは王位継承問題介入することが多く武臣政権期に即位した7人の王のうち、武臣政権は4人を擁立し、4人を廃位している。 そのような下剋上的な雰囲気加え高麗社会的矛盾進行し、また中央混乱したため、国内各地官民流亡逃散が相次ぎ、やがてそれらが反乱結びつくこととなった武臣政権発足期は特に多く1172年西北界の昌州三登州人が騒擾事件起こし1173年には既述の金甫当の反乱に始まる癸巳の乱。1174年には開城僧侶結集して武臣衝突同年には西京平壌留守趙位寵(チョ・ウィチョン)が反武臣政権公然と唱えて反乱し2年わたって抗戦した1176年にも公州で亡伊・亡所伊らが2年にわたる抵抗試みるなど、連年のように反乱相次いだ1193年には南賊と呼ばれる反乱勃発雲門慶尚道)の金沙弥(キム・サミ)が流亡者を集結し慶州農民反乱指導者孝心連携。さらに密陽安東反乱と結び、江陵清道蔚山にまで拡大する反乱となった崔忠献権勢を握ると、これに反撥する開城奴隷積(マン・ジョク)らが1198年崔忠献打倒標榜して反乱する。1199年には再び南賊が三陟蔚珍などの東海沿岸反乱勢力連携し東京慶州)の盗賊とも連合試みた1200年から1202年かけても東京中心に反乱勢力蠢動するなど、この時期高麗南部中心とした反乱が多い。 1210年代に入ると北部反乱が再び盛んとなる。1217年平壌騒動をはじめ、1218年には義州の韓恂(ハン・スン)が反乱を起こす西北全域騒擾拡大し4年わたって抗争続ける。モンゴルの侵攻始まった際には洪福源(ホン・ボグォン)が1500戸を率いてモンゴル降伏したこの後モンゴルへの降伏抵抗相次いだ[誰?]。

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