武臣政権期の特色
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武臣政権歴代の権力者たちは、高麗の伝統であった文班優位な官僚組織を打破し、実力本位の風潮を生み出した。それまで門閥化した文臣によって身分や秩序が固定化されていた状況に、抑圧されていた武人や庶民の不満が噴出したためである。武臣政権の軍事基盤も、(1)悪小・死士・勇士などと呼ばれる浮動的な武勇者、(2)家僮と呼ばれる奴隷身分の従者、(3)門客と呼ばれる私的な家臣団など、権力者との私的な結びつきで組織されたものが多く、慶大升時代から見られるようになる武臣政権下の最大兵力「都房」は、これら3系統を合わせていくつかの番に再編したもので、交替で権力者を守備する組織だったと見られる。都房の兵は共同生活し、長い枕・大きな蒲団で寝食を共にし、時には慶大升自身もこの枕で寝たという。都房を拡大した崔忠献の時代には、屈強の兵士を6番の都房に編成し、崔忠献の私邸に宿直する制度に発展している。 武臣政権の権力者たちは、身分的には低い出自から出発していた(李義旼の父は商人、母は寺婢。崔竩の母は私婢。金俊の父は私奴であり、金俊自身も元は崔氏の奴隷であった)。また、彼らは王位継承問題へ介入することが多く、武臣政権期に即位した7人の王のうち、武臣政権は4人を擁立し、4人を廃位している。 そのような下剋上的な雰囲気に加え、高麗の社会的矛盾が進行し、また中央も混乱したため、国内各地で官民の流亡・逃散が相次ぎ、やがてそれらが反乱に結びつくこととなった。武臣政権発足期は特に多く、1172年に西北界の昌州・三登・鉄州人が騒擾事件を起こし、1173年には既述の金甫当の反乱に始まる癸巳の乱。1174年には開城の僧侶が結集して武臣と衝突、同年には西京(平壌)留守の趙位寵(チョ・ウィチョン)が反武臣政権を公然と唱えて反乱し、2年にわたって抗戦した。1176年にも公州で亡伊・亡所伊らが2年にわたる抵抗を試みるなど、連年のように反乱が相次いだ。 1193年には南賊と呼ばれる大反乱が勃発。雲門(慶尚道)の金沙弥(キム・サミ)が流亡者を集結し、慶州の農民反乱指導者孝心と連携。さらに密陽・安東の反乱と結び、江陵・清道・蔚山にまで拡大する大反乱となった。崔忠献が権勢を握ると、これに反撥する開城の奴隷の万積(マン・ジョク)らが1198年崔忠献打倒を標榜して反乱する。1199年には再び南賊が三陟・蔚珍などの東海沿岸の反乱勢力と連携し、東京(慶州)の盗賊とも連合を試みた。1200年から1202年にかけても東京を中心に反乱勢力が蠢動するなど、この時期は高麗南部を中心とした反乱が多い。 1210年代に入ると北部の反乱が再び盛んとなる。1217年の平壌の騒動をはじめ、1218年には義州の韓恂(ハン・スン)が反乱を起こすと西北界全域に騒擾が拡大し、4年にわたって抗争を続ける。モンゴルの侵攻が始まった際には洪福源(ホン・ボグォン)が1500戸を率いてモンゴルに降伏した。この後もモンゴルへの降伏や抵抗は相次いだ[誰?]。
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