武良家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:50 UTC 版)
(鳥取県境港市入船町、東京都調布市) 家系 “武良”(むら)という苗字は全国的には珍しいが、境港にはたくさんある。武良氏は隠岐発祥と考えられており、隠岐諸島の島後(とうご)にある隠岐郡隠岐の島町(旧:隠岐郡西郷町)に“武良祭り”があり、“武良トンネル”が残っている。水木は、自らのルーツを求めて、隠岐を訪問している。 水木の著書『ねぼけ人生』〈新装版〉12頁によれば、「僕の祖先のことは、マジメに調べたことはないが、武良という姓もちょっと変わっているし、古い記録にも時々出てくる。最近読んだ『出雲祭事記』(講談社)という本によると、隠岐諸島の島後(諸島の北側の島)に武良郷という村があって、ここでは、ずいぶん昔から、二年に一度村民が寄り集って“武良祭り”という祭りをやっていたらしい。隠岐と境港は海をへだてた隣どうしだから、たぶん、武良郷あたりから、空腹に耐えかねた連中が食い物を求めて境港にやってきたのだろう。それが僕の遠い先祖ではないかと、推測している。」という。 戦国時代の弓ヶ浜に高岡城という城があって、武良隣左ェ門という豪族がおり、この一族が記録に残るルーツだろうと水木は考えている。 当時の境港のあたりは、毛利氏と尼子氏の勢力争いの場であったが尼子氏側の亀井能登守が毛利側の騙し討ちにあった時、その手引きをしたのが武良隣左ェ門だったと父から聞き伝えられている。 その後江戸時代になって武良惣平の代では、境港で回船問屋を営んでいた。 竹内村(高松)の武良氏について『伯耆志』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古武良某此所に居りしと云へり。今村中其裔あり。」とある。 水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』14頁によれば「境港の竹之内には高岡城趾といわれる所があり、古松が三本はえている。『伯耆志』によると、ここが武良氏の舘の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良舘のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやらずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。」という。 曾祖父・惣平(回船問屋) 境港で“武良惣平商店”という回船問屋を営み、一時は大層な羽振りをきかせていたが、鉄道便の発達で明治になると家業は衰えた。惣平は1892年(明治25年)境町会議員に当選した。 境港市長中村勝治によると「水木しげる先生の曽祖父にあたる武良惣平氏は自ら交易船を所有し、繰綿や木綿などの商いを手広く営んでいたと伝えられています」という。 祖父(実業家) 水木によると、「祖父は、米子の町長で呉服商をしていた住田善兵衛の長女と結婚する。そして、僕の父の亮一が誕生するのだが、その頃には回船業がいよいよダメになり、大きな家は人手に渡ってスッカラカンになった。それでも、祖父は多少やり手だったので、また努力して、昔日のおもかげはないものの、何とか家も建てた。」という。 家業の回船問屋をやめて、大阪で「関自動車」というタクシー会社を経営した(後に倒産)。 また、バタビヤ(現・ジャカルタ)に渡り印刷会社を興して成功した。親類・彦一は軽食堂を閉店後、印刷会社の人員募集に応じ、バタビヤに渡っている。 祖母・(呉服商、政治家・住田善平の長女) 鳥取県米子市東倉吉町の住田家は江戸時代から続く商家(呉服商)で、米子町(現・米子市)4代目町長を務めた善平の長女が水木の祖父に嫁いだ。 大叔父・住田延寿 大叔父といっても水木の父亮一より2歳年長なだけである。 武良家に居候(いそうろう)していた。水木の兄宗平によると、「二階にいて、赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局、定職に就かずに遊んで暮らした。今から見ると変人だった」という。 父・亮一(会社員、銀行員等) 1984年(昭和59年)10月没(享年88) 胃が丈夫なことから、水木は父親に「イトツ」(突出して強い胃袋)とあだ名をつけていた。 早稲田大学商学部卒。在学中は歌舞伎や芝居見物にうつつを抜かし、町に帰ってきてからも遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)。勤めに出ても、さぼって映画を見ていたのがばれてクビになり、祖父から大金をもらって始めた農機具輸入事業もあえなく失敗。 境町に戻り、今度は銀行に勤めるようになったが、夜は近所の芝居小屋を借りて映画を上映し、銀行員が本業か映画館が本業かわからないといったぐあいだった。 ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生〈新装版〉』には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 -妖怪漫画家の回想-』には“脱獄囚”と記されている。 また、英語が得意だったため美保航空隊で駐留軍の通訳をした。 妻によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという。死の際は「境港に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の菩提寺に納めた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「水木しげるロード」誕生につながったという。 水木の兄宗平は父亮一について、「ぼんぼんの道楽者。自由人だった。少し頼りない。楽をするのが好きで、スイカを買っても自分で持たないで、我々に持たすのだ。まったくおやじは家長らしくなかった。」と述べている。 母・琴江 1994年(平成6年)4月没(享年94) すぐ怒ることから、水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた。 母・琴江は江戸時代、苗字帯刀を許された米子の旧家に生まれ、その家柄を誇りとしていた。 水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』15頁によると、 「母の実家というのが三島という米子市の旧家で、元禄時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は風流人なのはいいが、俳句だの書画だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。」という。 『グレートマザー物語』によると、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという。 妻によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、軍人恩給を実家に送っていたという。また、水木が漫画家として成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』にシーサーが登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。 兄・宗平 1920年(大正9年)生 - 2017年(平成29年)11月22日没(享年97) 兄の娘夫婦(境港の水木プロ中国支部担当) 弟・幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー) 1924年(大正13年)生 - 2021年(令和3年)4月8日没(享年96) 妻・布枝(島根県安来市大塚町出身、呉服商、酒屋、政治家・飯塚藤兵衛の娘) 1932年(昭和7年)1月生 - 飯塚家の当主は代々飯塚藤兵衛を名乗り、呉服などを商う商家として知られていた。布枝の父親の藤兵衛は、若い頃から村会議員を務め、酒や塩の小売業を営みながらやがて市会議員になった人物。 著書『ゲゲゲの女房』(実業之日本社) 『ゲゲゲの食卓』(扶桑社) 長女・尚子(水木プロ社長) 1962年(昭和37年)12月生 - 次女・悦子(水木プロ勤務) 1966年(昭和41年)12月生 - 著書『お父ちゃんと私-父・水木しげるとのゲゲゲな日常』(やのまん) 『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋) - (赤塚りえ子、手塚るみ子との共著) 『ゲゲゲの娘日記』(KADOKAWA)
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