住田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:50 UTC 版)
(鳥取県米子市東倉吉町) 住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。 “本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。 善平の息子・寅次郎(水木の大叔父) 米子で初めて東大を出たとされる。寅次郎には出世(しゅっせ)欲がなく、米子で町会議員をつとめたり、製パン業を興しパンを売ったりして一生を終えたとのことである。元米子市長野坂寛治の著書『米子界隈』183頁によると、 「第四代町長住田善平氏は住田呉服店の御主人で、その令息・法学士住田寅次郎氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され、世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、明治35、6年ごろの学士さんはトテモドエライもので、住田寅次郎氏が法科を、筆者の叔父貴野坂康二が工科を、共に東大を卒えて帰還した年の夏、渡辺町長その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出たのだからというのですゾ。驚き桃の木サンショの木である。」という。 寅次郎の弟に絵描きの良三と、英語を趣味とした延寿がいる。 水木によると、「父の叔父に、パリで三十歳で客死した画家がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は松井須磨子の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で大金持ちの住田一族の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父の命日と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という。 住田家の保存活用の話が進められている。
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