住田一族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:24 UTC 版)
元米子市長野坂寛治によれば、 「第四代町長住田善平氏は住田呉服店の御主人で、その令息法学士住田寅次郎氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、明治35、6年ごろの学士さんはトテモドエライもので住田寅次郎氏が法科を、筆者の叔父貴野坂康二が工科を、共に東大を卒えて帰還した年の夏、渡辺町長その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出来たのだからというのですぞ。驚き桃の木サンショの木である。」という。 寅次郎の弟にフランスで客死した絵描きの良三と武良家に居候していた延寿がいる。延寿は赤鉛筆片手に英語の原書ばかり読んでいたが、結局定職に就かずに遊んで暮らしたという。 水木しげるによると「父の叔父に、パリで三十歳で客死した画家がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は松井須磨子の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で大金持ちの住田一族の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という。 住田半三郎は、1911年(明治44年)8月~1914年(大正3年)7月まで米子町収入役をつとめた。 元米子市長野坂寛治によると、「朝日町へ曲る角、桜井旅館に相対した木下薬店は、後年薮根橋の南西堤にアケビ垣をめぐらして、静かに雅びた生活をされた裏千家流茶道の友又斉住田半三郎宗匠宅であった。」という。
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