三別抄のその後について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:40 UTC 版)
20世紀後半に、沖縄県浦添市にある琉球王国時代の王墓、浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。国士舘大学教授の戸田有二は、これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測している。その時代、徳之島には既に高麗陶工が入りカムィ焼の生産に従事していた事が確実視され、浦添ようどれが最初の琉球王国の王統を築いた英祖によって咸淳年間(1265年~1274年)に造営されたとする『琉球国由来記』の記述とも年代としては一致する。
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