三分岐型教育制度におけるグラマースクール
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「グラマースクール」の記事における「三分岐型教育制度におけるグラマースクール」の解説
詳細は三分岐型教育制度(英語版)を参照。 1944年教育法(英語版)は、イングランドとウェールズの公立中等教育を初めて創設し、1947年北アイルランド教育法に反映された。三分岐型の教育制度を形成する3種の学校の1つが、グラマースクールと呼ばれ、現存するグラマースクールの学術面の精神を広めることが求められた。グラマースクールはイレブンプラス(英語版) で選ばれた生徒のうち最も知的能力を有する25%を対象にカリキュラムを教えることを意図した。 2種類のグラマースクールがこの制度の下で存在した。 完全な公立として「維持された」グラマースクール1,200校余りがあった。かなり古くからある学校もあったが、ほとんどはヴィクトリア時代新たに創立、建設された学校で、古くからあるグラマースクールに見られた勉強熱心さと向上心のある雰囲気を再現しようとしたものであった。 直接助成グラマースクール(英語版)もまた179校あり、生徒の4分の1から2分の1が国の制度から、残りの生徒は親が授業料を支払った。これらの学校もまた、地方自治体からは相当に自由であり、校長会議の会員であった。こうした学校には非常に古い学校が何校かあり、三分岐型教育制度に参加することが奨励された。直接助成グラマースクールで最も有名な例は、三分岐型教育制度の最も率直な支持者のひとりであるジェームズ・ラスホルム卿(英語版)を校長とするマンチェスター・グラマースクール(英語版)だった。 グラマースクールの生徒は、国の制度下で教育を受ける児童・生徒の誰よりも最高の機会が与えられた。当初は学校修了証)(英語版)や高等学校修了証(英語版)を取得するために勉強したが、それらは1951年に一般教育修了普通レベル(英語版)(Oレベル)や一般教育修了上級レベル(Aレベル)における一般教育証明(英語版)試験に置き換えられた。対照的に、中等モダンスクール(英語版)では、1960年代に学術度の低い中等教育修了証(英語版)(CSEとして知られる)が導入されるまで公的な試験を受ける生徒はほとんどいなかった。1960年代にロビンズ報告(英語版)が実施されるまで、パブリックスクールやグラマースクール出身の子供たちが事実上大学の入学機会を独占した。こうした学校はオックスブリッジへの競争入試を受けるための臨時学級を提供する唯一の学校でもあった。 三分岐型教育制度は1965年の通達(英語版)や1976年教育法とともに1965年にイングランドとウェールズの大部分で廃止された。国費で維持されたグラマースクールのほとんどは、近隣にコンプリヘンシブ・スクールを組織するために複数の地元の学校と合併したが、数校は閉学した。この移行過程はウェールズで急速に進み、カウブリッジ・グラマースクール(英語版)のような学校は閉鎖された。イングランドではカウンティやインデペンデント・スクールが組織改編に抵抗したため、一様に実施されたわけではなかった。 1975年の直接助成グラマースクールに関する規程(助成中止)により、こうした学校は地元の当局の管理下で総合学校化するか学費で収入を賄うインデペンデント・スクールになるか選択を迫られた。51校が総合学校化し、119校がインデペンデント・スクールとなり、5校が「制度の受け入れを拒否し独立あるいは閉校した」。このように、多くの学校は「グラマー」を冠しながら最早自由ではなかった。これらの学校は通常は入学試験で、時には面接で生徒を選抜した。 1980年代の終わりまでにウェールズのグラマースクール全てとイングランドのほとんどの学校が閉校するか総合学校化し、同時期にスコットランドでグラマースクールは公立学校から除外された。かつてグラマースクールだった学校の多くが選抜制を止めたものの、何校かは校名に「グラマー」を残した。これらのほとんどはコンペンシブ・スクールのままであるが、1990年代に数校が一部選抜制(英語版)か完全な選抜制になった。
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