日本侵攻理由の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
文永の役は征服を目的とした侵攻では無く、威力偵察ではなかったかとの説もある。モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、チンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金王朝侵攻では、数度にわたり「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった。また、『元史』には文永の役において、元軍の矢が尽きたという記述が見られ、当時の主力武器である矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくいこと、日本を征服するには33,000人程度という少ない兵力であることを威力偵察の根拠に挙げている。しかしながら、元軍の日本以外の派兵兵力は、渡海侵攻である三別抄の乱鎮圧戦ではおよそ12,000、樺太侵攻でも最大で10,000、ジャワ侵攻で20,000 であり、文永の役の兵力はその他の侵攻と比べて、決して規模の小さいものではなかった。また、偵察目的であることを裏付ける史料はなく、『元史』の矢が尽きたという記述の前に、撤退理由として「官軍(元軍)整わず」とあり、日本軍との戦闘に及んで編成を乱し、撤退することに決した元軍の様子の記述があり、予定通りの撤退であったとは書かれていない。また、『高麗史』においても、元軍は日本軍の頑強な抵抗に遭い、兵力不足を勘案した結果、元軍の総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)が撤退を決断したことが記されている。 一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。 旧南宋軍が主力となった江南軍10万人については軍隊兼移民団だったのでは、との見解がある。元々、南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったのではないかとしている。旧南宋軍の新たな雇用先として受け入れたことも元朝にとって負担であり、また軍を解散させると職を失った大量の兵士たちが社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである[要出典]。
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