実業界へ復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 21:33 UTC 版)
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。 就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。 また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。 東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、英国ウォーバーグ証券(S. G. Warburg & Co.)の役員や顧問を歴任した。
※この「実業界へ復帰」の解説は、「白洲次郎」の解説の一部です。
「実業界へ復帰」を含む「白洲次郎」の記事については、「白洲次郎」の概要を参照ください。
- 実業界へ復帰のページへのリンク