1945年から1952年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:34 UTC 版)
「ザクセン自由州 (1918年-1952年)」の記事における「1945年から1952年まで」の解説
ドイツの戦後処理において、在独ソ連軍政府は1945年7月に占領下にあった各地区に政府を置いた。ザクセン州首相にはルドルフ・フリードリヒス(ドイツ語版)が任命された。 占領下のザクセン州では1945年5月にドレスデンでドイツ共産党のアントン・アッカーマン(ドイツ語版)が政党活動を開始したのを皮切りに、各政党の活動が再開されたが、ドイツ社会民主党とドイツ共産党のザクセン州支部は1946年4月22日に行われた統合(ドイツ語版)によるドイツ社会主義統一党の結成よりも早くに統合されていた。 ザクセン州議会(ドイツ語版)の第1回選挙は1946年10月20日に実施され、ソ連の後ろ楯を得たドイツ社会主義統一党が得票率49.1%で第一党となり、自由民主党が24.7%、キリスト教民主同盟が23.3%、農民相互協力協会(ドイツ語版、英語版)が1.7%と続いた。1947年7月にフリードリヒスが死亡すると、マックス・セイデヴィッツ(ドイツ語版)が州首相となった。1947年2月には州憲法が採択されたが、州議会のすべての決議は在独ソ連軍政府の承認を経なければならなかった。 1949年10月にドイツ民主共和国が建国されると、1950年10月に第2回州議会選挙が行われた。この選挙は、すべての政党が合同して選挙連合「国民戦線(ドイツ語版)」を結成した上で行われたもので、 候補者リストもあらかじめ体制側が決めた議席配分に基づくものであった。すなわち、実際にはドイツ社会主義統一党率いる翼賛体制への信任投票に過ぎず、投票率も実に99.8%に上った。この選挙に続いて、議会上院にあたる共和国参議院(ドイツ語版)に13人の州代表が送られたが、結局これは最初にして最後の事例となった。ドイツ社会主義統一党は従来ドイツが採用していた連邦制ではなく、中央集権的な単一国家の建設を志向していたことから、1952年7月のドイツ民主共和国憲法の改正により州は解体された。5つあった州はそれぞれ解体されて14の県 (Bezirke)に再編され、ザクセン州はライプツィヒ県、ドレスデン県、ケムニッツ県(カール=マルクス=シュタット県)の3県に分割された。その後、1958年には共和国参議院も廃止され、1968年と1974年に行われた憲法改正を経て、1989年のベルリンの壁崩壊まで、連邦制はドイツ民主共和国において徹底的に排除された。1990年3月に同国初の自由選挙が実施されてドイツ再統一を主張する保守連合「ドイツ連合」が勝利すると、1990年7月23日に県を統合した上で境界を調整して新たに5州(新連邦州)が設置された。人民議会は8月23日に新連邦州が西ドイツ基本法第23条に基づいて10月3日にドイツ連邦共和国に加盟すると決議したことでドイツ再統一が果たされた。
※この「1945年から1952年まで」の解説は、「ザクセン自由州 (1918年-1952年)」の解説の一部です。
「1945年から1952年まで」を含む「ザクセン自由州 (1918年-1952年)」の記事については、「ザクセン自由州 (1918年-1952年)」の概要を参照ください。
- 1945年から1952年までのページへのリンク