1945年から1966年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 13:44 UTC 版)
「ペンツベルク」の記事における「1945年から1966年」の解説
1951年の時点で約2,000人がこの街の炭坑で働いていた。1930年代に計画され、戦中に工事が始まった引き込み鉄道路線を有する発電所が、1951年に操業を開始した。ドイツ鉄道は、石炭採掘会社であるオーバーバイエルンAGとともに、この発電所をエネルギー源として利用した。1966年のペンツベルクでの採炭停止後もこの発電所はオーバーバイエルンのもう一つの採炭地であるパイセンベルクやザールラント産の石炭で操業を続けたが、1971年のパイセンベルク閉山に伴い発電所も閉鎖した。1973年には高さ20m、3000m2の広さの旧発電所機械室を利用して、機関車の解体・再生工場が設けられた。その後ボイラー室や管理棟は撤去された。1979年には高さ98mの煙突も爆破された。機関車運営会社はこの工場で Bockerlと呼ばれる小型蒸気機関車を再生していた。この機関車は戦後も坑木をペンツベルク第2発電所(ネンネンヴァルトシャフト)に運んでいた。この機関車は現在、クリストケーニヒ教会の近くに記念として展示されている。しかし、やがて解体・再生工場は作業がなくなり、2008年に非採算性を理由に閉鎖された。同じ年にレギオナルバーンから発電所に伸びていた引き込み線も撤去された。現在、この工場跡は技術的記念建造物に指定されている。 共産党指導者のヨーゼフ・ラープは1950年代にペンツベルクで小さなカフェ・アルペンブリックを経営していた。1956年にKPDの活動が禁止されて以後、このカフェは地元の共産主義者の溜まり場となり、しばしば警察の手入れを受けた。 1950年代末、炭坑はそれまでの採掘装置を最新のものに入れ替えた。これにより、この炭坑はヨーロッパの先端的な鉱山の一つとなった。しかし、炭坑運営企業オーバーコールの親会社である鉱山会社ヒベルニアは1966年9月30日を最後に採炭を終了することを決定した。ペンツベルクの石炭はもはや競争力を失っていたのである。当時、ペンツベルクの人口11,000人のうち、1,300人が炭鉱労働者であった。
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