晩年:1948年−1968年
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1940年にバグダードから帰国してから、アルスーズィーは哲学講師の職を得たが、すぐに解任された。1945年から1952年 まではハマーとアレッポで中等教員を務め、1952年から1959年に退職するまでは教員養成学校で教えた。 1963年のバアス党第6回党大会以降、アフラクやビータールら創設メンバーは徐々に地位を失い、代わりに権力を持ちはじめていたハーフィズ・アル=アサドは、アルスーズィーに軍におけるイデオロギー形成を依頼した。アルスーズィーはその後、政府から恩給を受けるようになった 1965年には民族指導部メンバーに選出された。当時指導者の一人となっていたサラーフ・ジャディードは、アフラクやビータールら旧指導者のリーダーシップに反発し、アルスーズィーをバアス思想の創始者として彼らに取って代わらせようとした。1966年にバアス党がシリアとイラクに分裂して以後は、アルスーズィーはシリア派の主要なイデオローグとなった。一方のアフラクはイラクに受け入れられた。1966年から1968年に死去するまではアサドとジャディードのイデオロギー面での個人的なアドバイザーとなった。1968年7月2日、ダマスカスにて死去した。
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