晩年とその評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:52 UTC 版)
「デジデリウス・エラスムス」の記事における「晩年とその評価」の解説
キリスト者の一致と平和を重んじたエラスムスにはキリスト教徒が分裂していくことは容認できなかった。しかし、プロテスタント運動の進展の中で反ルターと目されたエラスムスへの批判も高まり、エラスムスは1521年にルーヴァン大学を去り、バーゼルへ移った。のちにバーゼルで宗教改革が進展するとそれに耐えられずフライブルクへ移った。1535年になって再びバーゼルに戻ったが、翌年1536年7月12日に同地で死去した。死去に先立ってエラスムスは自らの遺産を市にゆだね、その利子を貧しい人々のために用いることを願った[要出典]。 『痴愚神礼賛』はエラスムスの意図を離れて、反カトリック教会的書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになった[要出典]。 「キリストの哲学」(Philosophia Christi) という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視と衒学趣味に走っていた当時の神学に警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標とするものであった。ここにはエラスムスが受けた「デヴォツィオ・モデルナ」の教育の影響を見て取ることができる。低地諸国で栄え、共同生活兄弟団などの活動に結実していたこの思想運動は信心書の傑作『キリストにならう』(トマス・ア・ケンピス著)によってよくあらわされているが、まさに「キリストにならう」ことをエラスムスも目指していたのである。また、当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。
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