晩年と、死後の作品の受難
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「コンスタンチン・トーン」の記事における「晩年と、死後の作品の受難」の解説
トーンの最晩年における重要な仕事としては、1849年から1851年にかけて行われたモスクワとペテルブルクの鉄道駅(ニコラエフスキー駅)建設があげられる。駅舎の建設に当たっては、当時最新の技術をいくつか採用している。もっとも建設において鋼鉄の構造物の占める割合の大きさは、ヴェネツィア風のファサードと中世の趣を見せる時計塔によってうまく隠蔽された。双方の建築とも後世、大幅に改修されたが現在でも当時と同様に建っている。 1855年3月2日トーン最大の庇護者ともいうべき、ニコライ1世がクリミア戦争敗戦の中、失意の内に崩御する。トーンも健康を害しがちになり、1881年1月25日トーンはペテルブルクで死去した。トーンの遺した種々の建設計画は、救世主ハリストス大聖堂は別として、他については実行が難しくなっていった。トーンの生前、同時代人、例えばアレクサンドル・ゲルツェンなどの多くの革命派は、トーンの建築を「ツァーリズムの反動的明示」として批判しを加えた。このような見解はロシア革命によってさらに悲劇を生んだ。ソ連共産党とソ連政府は、トーンの作った教会建築を醜悪な整理だんすとレッテルを貼って多くを破壊した。破壊のうち、最大のものが1931年12月5日の救世主ハリストス大聖堂の爆破であった。まさに歴史と宗教、文化に対する暴挙であった。1990年ロシア正教会により、救世主ハリストス大聖堂の再建が決定し、2000年8月に落成、新ビザンチン様式の大伽藍が再びモスクワ河畔に再建された。
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