晩年から死後の家督相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:04 UTC 版)
明治5年3月5日(1872年4月12日)、勝殷は隠居して婿養子の勝任に家督を譲った。ところが、勝任は翌明治6年(1873年)8月19日に隠居し、家督は勝殷が再襲するも勝殷は同月31日に死去した。享年54。 勝殷の死後、同年10月24日に四女の種子が板倉家の女戸主となり、明治10年(1877年)10月13日に種子の夫の久知が家督を継いだが、明治13年(1880年)1月17日に久知が隠居し(直後に離縁して実家の中川家に復籍)、再び種子が女戸主となった。明治16年(1883年)12月10日に種子は隠居して養女の花子(実姉、勝殷の三女、勝任の元妻)に家督を譲った。 明治19年(1886年)、花子は2人目の夫に板倉勝観(戸田央、元川越藩主松平康載)を迎え、勝観は同年4月6日に家督を継ぎ、同月24日に子爵を叙爵した。
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