晩年およびその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 03:26 UTC 版)
晩年のある日、天明は「カタは他で出ているそうだ」とつぶやいたという。それまで天明こそが経綸の最終的な継承者だと信じていた妻・三典は「息が止まるほど驚いた、今更自分ではないと言われても全く困ってしまった」と記録している。天明亡き後は岡本三典が日月神示原文の研究と解読に取組み、1976年(昭和51年)に『原典日月神示』を、1991年(平成3年)12月には神示の第二訳私解を発表している(三典はこれを「一二三神示」第二仮訳と呼んでいる)。また、絵の方も遺作展として、あるいは「天明展」の名称で1963年(昭和38年)8月の大阪での開催を手始めに天明没後も40年以上の長い期間にわたって断続的に開き、紹介してきた。三典の著書(参)には、天明は生前、三典に「自分が早く死んでも、きみは「ふで」の内容を全て成就してくれるだろう。」と後事を託すような感じで良く語っていたという。また、男性ばかりの宗教会議などにも秘書として良く連れて行かれたと著書で記している。他にも麻賀多神社で「神示発祥記念祭」などを主催した。また、予言書として扱われることもある。
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