晩年、そして没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 10:27 UTC 版)
「ニコライ・プルジェヴァリスキー」の記事における「晩年、そして没後」の解説
これらの大冒険の結果中央アジアの地理と動植物相の研究は新たな時代の幕明けとなった。この広大な土地についてはこの当時の西洋世界からは比較的知られていなかったのである。その他、バクトリアラクダ(フタコブラクダ)やプルジェワリスキーウマ、プルジェワリスキーガゼルの野生の群れを報告している。これらの動物は多くのヨーロッパの言語では彼の名前に因んだ種名で呼ばれている。プルジェヴァリスキーにはロシア語で書かれた5つの大著があった。 5回目の探検に出発する直前にプルジェヴァリスキーは、イシク・クル湖畔のカラコル(現キルギス領)でチュイ川の水を飲んで、チフスに感染して死亡した。この時に皇帝は彼を偲んでカラコルの町の名をプルジェヴァリスクと変えさせた。同地には彼の業績を称えた記念碑や博物館があり、またサンクトペテルブルクにも記念碑がある。 彼の死から1年も経たずしてミハイル・ペフツォフが中央アジア奥地への探検隊長の任を引き継いだ。プルジェヴァリスキーの研究もまた、彼の若い弟子であったピョートル・クズミチ・コズロフによって続けられた。 プルジェヴァリスキーの名に因んだ地名は他にもある。ロシアのスモレンスク州にあるかつてスロボダとよばれていた小さな村は、1881年から1887年まで(旅行期間中を除く)プルジェヴァリスキーが居住していて、彼はこの場所を気に入っていたようだった。この村は1964年に彼の名をとってプルジェヴァリスコエと改名された。そこにはニコライ・プルジェヴァリスキーの古い家と新しい家、半身像、池、庭園、白樺並木、ハトカとよばれるロッジ・監視所などの記念施設が集まっている。ここの博物館はロシア国内では唯一探検家を記念したものである。 プルジェヴァリスキーはナス科のプルゼワルスキア属(Przewalskia Maxim.)から献名されている他、彼の名は80種を超える植物に冠されている。
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