ネーデルラント
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ネーデルラント(オランダ語: Nederlanden、英語: Netherlands)は、「低地の国々」を意味し、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国(ベネルクス)にあたる低地地域(オランダ語:ラーヘ・ランデン de Lage Landen、英語:the Low Countries)内に存在した諸邦群を表す歴史学用語。日本語でカナ表現の「オランダ」は、オランダ西部の南北ホラント州に由来する。
歴史
ハンザ同盟のころからフランドルを中心に商業が発展し、西ヨーロッパの先進地域だった。14世紀後半、ブルゴーニュ公国領としてこの地域は政治的に統合され(ブルゴーニュ領ネーデルラントを参照)、15世紀後半にはハプスブルク家が継承した。

ハプスブルク家がオーストリア系・スペイン系に分かれると、ネーデルラントはスペイン・ハプスブルク家が支配した。宗教改革以降、プロテスタントの勢力がカトリック国スペインの支配に抵抗し、ネーデルラントの北部7州は八十年戦争を経て、1648年にヴェストファーレン条約によってスペイン・ハプスブルク家の支配から独立した。北部7州は連邦制・共和制(ネーデルラント連邦共和国)、フランスの支配(バタヴィア共和国、ホラント王国、フランス帝国への併合)を経て、オラニエ=ナッサウ家を王家とする現在のネーデルラント王国(オランダ)に到る。
一方の南ネーデルラントは、スペイン・ハプスブルク家の支配下に留まる(スペイン領ネーデルラント)ものの、フランス王国との係争地となり、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)も巻き込んでネーデルラント継承戦争が起こされた。スペイン継承戦争後は、オーストリア・ハプスブルク家領(1713年 - 1793年)となるが、フランス革命戦争後にフランスが併合した。1815年のウィーン条約(ウィーン会議)ではネーデルラント連合王国に編入されるが、オランダ人の支配を嫌い、1830年にベルギー独立革命がはじまり、翌年、イギリスなどの承認によりドイツ貴族ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世を国王とする立憲君主国・ベルギー王国が成立した。ネーデルラント王国は1839年にベルギーの独立を承認した。1890年にはルクセンブルク大公国がネーデルラント王国との同君連合を解消して独立した。
参考文献
- 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』彩流社、1995年。ISBN 4882023709。
関連項目
外部リンク
低地諸国
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第一次世界大戦終結以降、低地諸国地域で以下の連合体が設立されていった。 ベネルクスはベルギー、オランダ、ルクセンブルクの間での経済・政治同盟である。1944年9月5日、ベネルクス関税同盟設立条約が署名された。条約の発効は1948年のことであったが、この関税同盟は、1958年2月3日にデン・ハーグで条約が署名されたことによって、同条約が発効した1960年11月1日にベネルクス経済同盟に引き継がれた。1955年にはベネルクス議会が創設されている。 ベルギー・ルクセンブルク経済同盟はベネルクスの前身とされる。この経済同盟の発足は1921年7月25日に署名された条約によるものであり、両国の間で単一市場が創設されたほか、ベルギー・フランとルクセンブルク・フランを等価で固定することも定められた。
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