低姿勢・寛容と忍耐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「低姿勢・寛容と忍耐」の解説
60年安保は、大衆、世論を街頭に可視化し、そのイメージはテレビというメディア (媒体)によって瀰漫した。岸内閣による安保改定の強行とその後の党内抗争は、自民党に対する国民の大きなイメージダウンをもたらしていた。 このような状況で表舞台に登場した池田にとって「マスメディア対策」が重要な課題となった。首相就任当時、60年安保の盛り上がりを受けて、野党は上げ潮ムードの中での「安保解散」を狙い、早期の解散を要求した。しかし池田は「安保の悪夢」を断ち切るためにこれに応じず、総選挙までの4ヶ月間、「国民所得倍増計画」という経済政策面での新しさによって「新政権の魅力」を印象づけようとした。これは後に「政治の季節」から「経済の季節」へ、「チェンジ・オブ・ペース」などと呼ばれた。 「所得倍増計画」は組閣直後はまだ正式発表できる段階ではなかったため、臨時国会で野党の所信表明演説の要求を回避した。各省と自民党の政策決定プロセスを経て発表するまでの1か月半は、池田個人のイメージ戦略に費やされた。池田は過去の度重なる失言癖で、国民は勿論、政財界、マスメディアからも「高圧的な荒武者」「嫌なヤツ」という印象が広く共有されており、それを払拭する必要があったのである。池田は、岸内閣を倒閣に追い込んだテレビを逆に利用し、自民党への支持を取り戻そうとしたのである。 池田のイメージ戦略を端的に表したフレーズが、「低姿勢」と「寛容と忍耐」である。「寛容と忍耐」という言葉の語源には諸説あり、元米財務長官・ジョン・W・シュナイダー(民主党)の「民主主義の基礎は時の政治的優位者の寛容と忍耐だ」を池田が思い出して使ったとする説と、大平が"辛抱"という言葉を出してみたが、どうも貧乏くさく、これが"忍耐"と言い直され、宮澤が得意の横文字から、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の原著にある"tolerance"を思い起こしてと"寛容"をくっつけたとするものがある。宮澤は回顧録で「大平さんが池田さんに、とにかくここは"忍耐"しかないですね、と言ってそんなことから"忍耐"を一つスローガンにする。もうひとつ私が、ジョン・スチュアート・ミルがよく"tolerance"ということを言っていたから"寛容"というのはどうですか、と私が言って、それでスタートした」と話している。これらのイメージは池田のブレーンが作り出したものであるが、池田の特徴は自身を支え、演出するブレーンを作った点にあった。池田のメディア戦略を支えたのは、前尾、宮澤、大平、黒金泰美、伊藤昌哉、鈴木善幸らである。 組閣翌日の記者会見はテレビで生中継され、池田は会見中終始笑顔を絶やさず、岸前首相の"高姿勢"とは対照的なイメージを視聴者に与えた。さらに翌日、日本初の女性閣僚となった中山マサ厚生大臣がNHKに出演し、マスメディアにも大きく取り上げられ、内閣の看板役を務めた。イメージ戦略は服装などにも及び、スーツやメガネなどで大臣時代のキャラクターを変え、庶民イメージを醸し出した。
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