メディア戦略
メディア戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
池田は衆院選挙後も積極的にテレビメディアを利用した。池田は世論工作とマスメディア対策には極めて熱心で、マスメディアを体制内に抱き込み、自主規制体制を固めながら同時にマスメディアをフルに利用して世論づくり=人づくりを進めていくという巧妙な戦略を執った。 池田は就任早々「マスコミ大臣」の新設を計画。岸が退陣する二週間前に作った内閣総理大臣官房広報室(総理府)(現・内閣府大臣官房政府広報室)は、まだ中身が無かったが、ここに充分な予算を付け広聴機能を充実させ、独立したマスメディア対策担当部門として発足させた。内閣総理大臣官房広報室を実質的に作ったのは池田である。 記者クラブ対策、政府広報活動を大幅に強化し、政府がマスメディアに与える特恵措置を拡充させ、各種審議会・調査会にマスメディア幹部を盛んに迎え入れ、自民党、政府首脳との懇談会を活発化させた。池田が総理在任中に政府の広報関係予算は急増した。 毎月1回、全国のモニターから意見徴取する「国政モニター制度」や総理や大臣たちが各地に赴いて意見を聞く現在のタウンミーティングにあたる「国政に関する公聴会」を設け、これは「一日内閣」と愛称されテレビでも生中継された。また1961年11月から阿部眞之助NHK会長の要請を受け入れる形で、NHKと民放がひと月に一回交互に行う総理出演番組『総理に聞く』『総理と語る』を定例化した。1962年からはテレビタレントをはじめとする芸能・文化人とも交流をはじめ、全国組織委員会の企画によるパーティ形式の「芸能文化関係者懇談会」が官邸で開催されるようになった。 この他、池田が「人づくり」政策を推進したことから、東京オリンピックを前にしての浄化運動という名目もあり悪書追放運動に乗り出し、1963年には総理府が中心となり、地方自治体に働きかけ「青少年保護育成条例」を各県に自主的に作らせた。同年、この流れを受け、民間団体「国民政治研究会」(唐島基智三会長)が俗悪番組一覧表をつけた「テレビ番組改善への提言」を公表してテレビ各局に申し入れ、青少年不良防止に名を借りたテレビ"低俗番組"追放へ、最初の自主規制介入が行われた。 池田は1963年頭の第43回国会本会議での施政方針演説に於いて「新聞、ラジオ、テレビ等は、家庭、学校、社会の三つを通じ、人つくりの環境を整える最も強力な手段となりつつあります。最近におけるテレビの普及は、このことを決定的にしたものといっても過言ではありません。私は、これら言論機関の責任者が社会教育の先達者であるとの誇りと責任を持って、人つくりに一そうの力を尽くされるよう期待するものであります」と述べた。池田はテレビを通じたコミュニケーションによって自民党を危機から救うと同時に自身の権力を固めた。
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