阿部眞之助
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あべ しんのすけ
阿部 眞之助
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『恐妻一代男』より
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| 生誕 | 1884年3月29日 埼玉県熊谷市 |
| 死没 | 1964年7月9日(80歳没) |
| 死因 | 心筋梗塞 |
| 墓地 | 多磨霊園 |
| 別名 | 野山 草吉 |
| 出身校 | 東京帝国大学文学部社会学科 卒 |
| 職業 | 新聞記者 |
| 団体 | 東京日日新聞社 毎日新聞社 |
| 肩書き | NHK会長 |
| 受賞 | 文藝春秋読者賞 菊池寛賞 新聞文化賞 |
| 栄誉 | 従三位 勲一等瑞宝章 富岡市名誉市民 |
阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年〈明治17年〉3月29日[1][2][3][4][5] - 1964年〈昭和39年〉7月9日[3][4][5])は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、政治評論家、エッセイスト。筆名は野山草吉[6][4]。毎日新聞社取締役主筆、日本エッセイスト・クラブ初代理事長、第9代NHK会長を務めた。富岡市名誉市民。恐妻家としても知られた。
生涯
1884年(明治17年)、埼玉県熊谷市で[1][2][3][7][8]、造り酒屋を営む阿部久兵衛の次男として生まれる[2]。兄は早世し、姉4人、弟妹各1人がいた[1][2]。1890年(明治23年)群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)に転居し、富岡小学校で学ぶ[9][2]。1897年(明治30年)群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)が開校されると入学[10][2]。町で唯一の書店の店番をして、本を乱読した[11][12]。旧制第二高等学校に進み[11][12][3][7]、土井晩翠の教えを受けた[11]。1908年(明治41年)に東京帝国大学文学部社会学科を卒業[13][8]。卒業論文は『犯罪社会学』[13]。
東京帝大卒業後、樋口龍峡の世話で[11]満州日日新聞社に入社[11][13]。旅順支局長を務めた[11][13]。1911年(明治44年)ストライキを首謀したとして馘首[14][15]。一時高田新聞を手伝い[16][14]、同年、東京日日新聞に入社[16][14][7][4]。1914年(大正3年)に大阪毎日に転じ[14]、1918年(大正7年)名古屋支局長[17][18]、1920年(大正9年)京都支局長[17][18]、1922年(大正11年)社会部長[19][18]を歴任。1928年(昭和3年)東京日日に戻る[20][21]。その後も1929年(昭和4年)に政治部長となるが[21]、1930年(昭和5年)から休職し[22][23]、『中央公論』に「街の人物評論」、『サンデー毎日』に「今週の人」の連載を開始[22][23]。1932年(昭和7年)に学芸課長(部長待遇)として復帰し、1933年(昭和8年)学芸部長に就任[22][23]。
学芸部長時代には、菊池寛を学芸部顧問に、久米正雄・横光利一・吉屋信子・大宅壮一・高田保・木村毅・三宅周太郎を学芸部社友とした[24]。また、囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935年(昭和10年)から将棋名人戦、1939年(昭和14年)から囲碁本因坊戦が開始(なお、本因坊戦開始にあたっては、阿部の部下であり後のパ・リーグ理事長の黒崎貞治郎が担当)[25]。さらに女性作家・書家の交流団体「東紅会」を創り[26]、メンバーは、長谷川時雨、野上弥生子、真杉静枝らであった[11]。
1938年(昭和13年)編集局主幹に就任し[27][28][29]、後任の学芸部長には久米正雄が就いた[28][30]。同年取締役主筆となる[28]。1944年(昭和19年)に毎日新聞社を退職し[31][6][5]、顧問となった[31][6]。
1946年(昭和21年)中等教科書株式会社社長[32]、1947年(昭和22年)文部省社会教育審議会委員[32]。1949年(昭和24年)毎日新聞顧問を退き社友となる[32]。1950年(昭和25年)明治大学新聞科兼任講師となり、1952年(昭和27年)兼任教授[33]。1950年(昭和25年)横綱審議会委員[33]。1951年(昭和26年)から1962年(昭和37年)まで東京地方労働委員会会長[33]。1952年(昭和27年)から1962年(昭和37年)まで公安審査委員会委員[33]。
1953年(昭和28年)に日本エッセイストクラブを創立して会長になる[33][8]。1954年(昭和29年)文藝春秋読者賞を受賞[34]。1955年(昭和30年)、「自由かつ気骨ある政治評論家として民衆の政治意識を高めた近年の活動」により、第3回菊池寛賞を受賞[34]。
1956年(昭和31年)にNHK経営委員長となる[34]。同年新聞文化賞受賞[34][5]。1959年(昭和34年)日本ユネスコ国内委員[35]。1960年(昭和35年)10月、NHK会長に就任[35]。NHK会長としては、受信料調査会の設置や[35]、新受信料制度の実施[36]、NHK放送センター設置構想の提言[36]などを行った。NHK会長に就いた際にほとんどの原稿執筆は打ち切るが、『東京新聞』の「放射線」だけは匿名で執筆を継続した[37][35]。
1961年(昭和36年)国語審議会会長[35]。1962年(昭和37年)選挙制度審議会会長[36]。1962年(昭和37年)、日本で初めての広域通信制高等学校である、学校法人日本放送協会学園創設に尽力し初代理事長に就任する[38]。1963年(昭和38年)、茅誠司東京大学総長らとともに「小さな親切」運動を提唱する[7]。
1964年(昭和39年)7月9日午前7時、NHK会長在職中に心筋梗塞で急死した[36][39]。墓所は多磨霊園[40]。従三位・勲一等瑞宝章を贈られた[36]。死去後、妻のさだがその遺志を継ぎ、生徒・学生の育英事業を行うことが発議され、1964年(昭和39年)10月1日に「財団法人阿部育英基金」が誕生した[41]。
1972年(昭和47年)9月、富岡市名誉市民の称号を贈られた[36][3]。
人物
- その筆鋒は毒舌で知られた[3]。大宅壮一がその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したのは有名[42]。その大宅壮一も含めて、「マクラの真之助、サワリの壮一、オチの保」と言われたこともあるという[43]。漫画家・横山泰三は「インテリ忠次」とあだ名した[3]。
- 恐妻家を自称していたことで知られる。「恐妻会」会長を名乗ったとされるが、阿部本人は、友人の大宅壮一がありもしない恐妻会の会長が阿部であるという話を吹聴したもので、面倒なので否定していないだけだとしている[44]。「恐妻とは愛妻のいわれなり」との名言を残した[7]。恐妻会2代会長は小汀利得であるとされる[45]。
- 甥(弟の子)に、読売新聞社記者の阿部幸男、西洋史学者の阿部玄治[46](千葉大学教授[47])。
受賞
編著書
- 『犯罪問題』冬夏社 現代社会問題研究 1920
- 『非常時十人男 彼等は何をしたか』編 創造社 1933
- 『新人物論』日本評論社 1934
- 『現代世相読本』東京日日新聞発行所[ほか] 1937
- 『新世と新人』三省堂 1940
- 『人間と社会』三省堂 1940
- 『日本の自覺』東洋経済新報社出版部 1943
- 『自由と責任』日東出版社 1948.
- 『一問一答 第9輯 (暁に祈る)』吉村隊長共著 問答社 1949
- 『老記者の想い出話』比良書房 1950
- 『現代日本人物論 政界・官界・財界・労働界・文化界の人々』編 河出書房 1952
- 『近代政治家評伝』文藝春秋新社 1953
- 『失礼御免』共著 要書房 1953
- 『当世うらおもて』要書房 1953
- 『現代政治家論』文藝春秋新社 1954
- 『恐妻一代男』文藝春秋新社 1955
- 『毒舌ざんげ わたしの時評』毎日新聞社 1955
- 『現代女傑論 現代日本女性を代表する十二人』朋文社 1956
- 『阿部真之助集』日本書房 1959年
- 『阿部真之助選集』大宅壮一・木村毅・浅沼博・高原四郎編 毎日新聞社 1964
脚注
- ^ a b c 阿部 & 阿部 1965, p. 130.
- ^ a b c d e f 阿部 1976, p. 279.
- ^ a b c d e f g 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、18-19頁。doi:10.11501/12189010。(
要登録) - ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『阿部眞之助』 - コトバンク
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『阿部眞之助』 - コトバンク
- ^ a b c 阿部 1976, p. 287.
- ^ a b c d e f 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年3月20日、28-29頁。ISBN 978-4-88058-988-6。
- ^ a b c d e f 日外アソシエーツ現代人物情報より
- ^ 阿部 & 阿部 1965, p. 138.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, pp. 144–145.
- ^ a b c d e f g 阿部 1955, pp. 41–64.
- ^ a b 阿部 1976, p. 280.
- ^ a b c d 阿部 1976, p. 281.
- ^ a b c d 阿部 1976, p. 282.
- ^ 川村湊・守屋貴嗣編『文壇落葉集』(毎日新聞社)解説(守屋貴嗣)P.428
- ^ a b 阿部 & 阿部 1965, p. 177.
- ^ a b 阿部 & 阿部 1965, p. 182.
- ^ a b c 阿部 1976, p. 283.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, p. 185.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, p. 189.
- ^ a b 阿部 1976, p. 284.
- ^ a b c 阿部 & 阿部 1965, pp. 191–195.
- ^ a b c 阿部 1976, pp. 284–285.
- ^ 川村湊・守屋貴嗣編『文壇落葉集』(毎日新聞社)解説(守屋貴嗣)P.431
- ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
- ^ 阿部 1976, p. 285.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, p. 201.
- ^ a b c 阿部 1976, pp. 286–287.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 46頁。
- ^ 夏堀正元『風来の人 小説・高田保』(文春文庫)P.182
- ^ a b 阿部 & 阿部 1965, p. 203.
- ^ a b c 阿部 1976, p. 288.
- ^ a b c d e 阿部 1976, p. 289.
- ^ a b c d 阿部 1976, p. 290.
- ^ a b c d e 阿部 1976, p. 291.
- ^ a b c d e f 阿部 1976, p. 292.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, p. 205.
- ^ 阿部育英基金と創設者について[リンク切れ]
- ^ 「阿部NHK会長を憶う / 西本三十二」『放送教育』第19巻第5号、日本放送教育協会、1964年8月1日、19頁、NDLJP:2341240/10。
- ^ 阿部 & 阿部 1965, pp. 13–16.
- ^ 阿部育英基金と創設者について[リンク切れ]
- ^ 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
- ^ 大隈秀夫『大宅壮一を読む』(時事通信社)P.35
- ^ 阿部 1955, pp. 7–23.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, pp. 7–10.
- ^ 阿部 & 阿部 1965, pp. 208–211.
- ^ 阿部 1976, pp. 276–277.
参考文献
- 阿部眞之助『恐妻一代男』文藝春秋新社、1955年12月25日。doi:10.11501/2932575。(
要登録) - 阿部幸男; 阿部玄治『恐妻 知られざる阿部真之助』冬樹社、1965年7月18日。doi:10.11501/2985858。(
要登録) - 阿部幸男 編『恐妻一代 阿部真之助の横顔』角川書店、1976年6月9日。
外部リンク
- 阿部眞之助 - 富岡市役所サイト - ウェイバックマシン(2007年10月12日アーカイブ分)
- 阿部真之助 - 歴史が眠る多磨霊園
- 公益財団法人・阿部育英基金
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