イングランドの勝利(1345年 - 1351年)
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1346年7月5日、エドワード3世はプリマスから750隻、7千から1万人の兵を連れて本格的な侵攻に乗り出した。最近プリンス・オブ・ウェールズとなった16歳の息子エドワード黒太子も同行した。7月12日にノルマンディーのコタンタン半島のラ・アグに上陸した。フロワサールの年代記には、上陸時の以下のようなエピソードが記述されている。 上陸時にエドワード3世が地面に躓いて倒れ鼻血を出したため、臣下達が悪い兆しだと心配したが、エドワード3世は「これは良い兆しだ。なぜなら大地が私を求めていたからだ」と答えたという。(大意) イングランド軍がノルマンディーに上陸したのに対し、フィリップ6世は大軍を集結し始めていたが、エドワード3世は領土の占領はせず、略奪を続けながら低地諸国に向かって北上した。この行軍中にカーンの襲撃・略奪(カーンの戦いも参照)とブランシュタックの戦いに勝利している。最終的にフィリップ6世の追撃に対して戦闘態勢を整え、クレシーの戦いとなった。数的有利に立つフランス軍は繰り返し騎馬突撃によりイングランド軍を攻撃したが、ロングボウに阻まれ、大損害を出して撤退しなければならなかった。クレシーの戦いはフランス軍の大敗で終わった。 エドワード3世はイギリス海峡に面する港湾都市カレーを包囲し、1347年に陥落させた(カレー包囲戦)。同年にスコットランドにおいてはネヴィルズ・クロスの戦いの勝利によりデイヴィッド2世を捕虜とし、スコットランドの脅威を大幅に軽減した。 1348年に黒死病(ペスト)がヨーロッパ中に流行し、イングランド、フランスも大被害を受けたため、イングランドは更なる攻勢を取れず、フランスでは1350年にフィリップ6世が亡くなり、息子のジャン2世が跡を継いだ。
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