イングランドのパッラーディオ主義建築とは? わかりやすく解説

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イングランドのパッラーディオ主義建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:37 UTC 版)

パッラーディオ建築」の記事における「イングランドのパッラーディオ主義建築」の解説

ヨーロッパ大陸人気のあったバロック様式は、真にイングランド人趣味に合わなかった。18世紀最初の4半世紀4つ著書イギリス出版され、それらは古典的な建築単純さ純粋さ強調していた。それらの著書とは次ののである。 『ウィトルウィウス・ブリタニクス』、コーレン・キャンベル著、1715年(その補遺18世紀通じて出版された) 『パッラーディオの建築四書』、イタリア建築家ジャコモ・レオニの翻訳1715年以降出版 レオン・バッティスタ・アルベルティの『建物芸術について』、ジャコモ・レオニ翻訳1726年出版イニゴー・ジョーンズデザイン... 追加的デザイン付す』、ウィリアム・ケント著、2巻1727年出版その後イニゴー・ジョーンズウィリアム・ケントデザイン幾つか』、1744年ケント友人である建築家ジョン・ヴァルディが出版)。 これらの著作の内、当時裕福なパトロンの間で最も人気があったのが、コーレン・キャンベルによる4巻本のウィトルウィウス・ブリタニクス』だった。キャンベル建築家であり、出版者でもあった。この本は基本的にイギリス建物建築図面を含むデザインの本であり、ウィトルウィウスからパッラーディオまでの偉大な建築家からヒント得たのだった当初は主にイニゴー・ジョーンズのものだったが、後にはキャンベルなど18世紀建築家図面計画図を含む研究書となった。この4巻本は18世紀イギリスパッラーディオの建築確立されものになるために大い貢献した。そこに載った3人の著者は最も流行乗った者となり、時代建築家求められた。キャンベルはその著作ウィトルウィウス・ブリタニクス故に銀行家ヘンリー・ホーア1世のストーヘッドハウス(右上図)の建築家として選ばれることになった。これはイングランド中で数多い同様な家屋影響を与えたものとなった傑作だったデザイン新し学派最前線立ったのが貴族で、「建築家伯爵第3バーリントン伯爵リチャード・ボイルだった。1729年ボイルウィリアム・ケントチジックハウス設計した。このハウスパッラーディオヴィラ・カプラ再解釈したものだったが、16世紀要素装飾取り去っていた。この装飾徹底して無いということが、パッラーディオ主義特徴となった1734年ウィリアム・ケントバーリントン卿が、イングランドでもパッラーディオ建築素晴らし例の1つである、ノーフォークホウカム・ホール設計した。この家の本体部パッラーディオ指示極めて密に従っているが、パッラーディオ低く分離していることの多い農家ウィングがその重要性増している。ケントがそれをデザイン付加し家畜消し本館自体同じくらいにウィング重要性増した。これらウィングポルチコペディメント飾られることが多く、かなり後のそれ自体小さなカントリーハウスであるケドルストン・ホールと似ている所が多い。イングランドパッラーディオ主義パッラーディオオリジナル作品模倣であることから変革することになったのは、この側面ウィング発展だった。 建築様式個々施主要求合わせるために変革し変わっていく。1746年、第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルウォバーン・アビー建て替え決断し、そのデザインとしてパッラーディオ様式選択した。それは当時最も流行していたものだったからだった。ベッドフォード公バーリントン弟子だった建築家ヘンリ・フリッツクロフト選んだ。フリッツクロフトのデザイン本質的にパッラーディオ様式であるが、パッラーディオ自身からはそうであると認められないのだった本体中央部小さく柱間3つしかなかった。神殿のようなポルチコは単にあるよう見えるだけであり、閉鎖されていた。2つ大きなウィングには、農家繋いでいたはずの壁あるいはコロネード代わりに大広間広大な特別室入っていた。建造物外れにある農家は高さを上げて母屋合わせるようにし、パッラーディオ様式の窓を置き、パッラーディオ建築であると見られるようにしていた。この様式の発展は、その後100年間にイギリス数多い家屋タウンホール繰り返された。ヴィクトリア時代はあまり好まれなくなっていたものの、1913年にアストン・ウェブがバッキンガム宮殿改装するときに復活した終端となる部分閉じられポルチコすなわち付け柱そのものとなることが多く中央部と同じ興味惹くか、それを補うものとなった。これは200年前パッラーディオデザインとはかなり遠く離れたものとなったイングランドパッラーディオ家屋はもはや小さいが洗練された週末を過ごすものとなっており、それからイタリア家屋認識されるものになった。それらはヴィラではなく建築史家ジョン・サマーソン卿の言葉では権力を示す「パワーハウス」であり、イギリス支配したホイッグ党地主階級」の権力象徴的に示すものだったパッラーディオ建築イギリス席捲するに連れて数値比を考慮する考え方消えてしまった。ウィングのある四角な家屋よりも、主要な考慮事項として長いファサードがあった。奥行き一室のみであることが多い長い家屋は、その大きさについて誤った印象与えるよう巧妙に仕組まれていた。

※この「イングランドのパッラーディオ主義建築」の解説は、「パッラーディオ建築」の解説の一部です。
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