イングランドのパッラーディオ主義建築
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「パッラーディオ建築」の記事における「イングランドのパッラーディオ主義建築」の解説
ヨーロッパ大陸で人気のあったバロック様式は、真にイングランド人の趣味に合わなかった。18世紀の最初の4半世紀、4つの著書がイギリスで出版され、それらは古典的な建築の単純さを純粋さを強調していた。それらの著書とは次のものである。 『ウィトルウィウス・ブリタニクス』、コーレン・キャンベル著、1715年(その補遺は18世紀を通じて出版された) 『パッラーディオの建築四書』、イタリアの建築家ジャコモ・レオニの翻訳、1715年以降に出版 レオン・バッティスタ・アルベルティの『建物の芸術について』、ジャコモ・レオニ翻訳、1726年出版 『イニゴー・ジョーンズのデザイン... 追加的デザインを付す』、ウィリアム・ケント著、2巻、1727年出版(その後「イニゴー・ジョーンズとウィリアム・ケントのデザイン幾つか』、1744年、ケントの友人である建築家ジョン・ヴァルディが出版)。 これらの著作の内、当時の裕福なパトロンの間で最も人気があったのが、コーレン・キャンベルによる4巻本の 『ウィトルウィウス・ブリタニクス』だった。キャンベルは建築家であり、出版者でもあった。この本は基本的にイギリスの建物の建築図面を含むデザインの本であり、ウィトルウィウスからパッラーディオまでの偉大な建築家からヒントを得たものだった。当初は主にイニゴー・ジョーンズのものだったが、後にはキャンベルなど18世紀建築家の図面や計画図を含む研究書となった。この4巻本は18世紀のイギリスでパッラーディオの建築が確立されたものになるために大いに貢献した。そこに載った3人の著者は最も流行に乗った者となり、時代の建築家に求められた。キャンベルはその著作『ウィトルウィウス・ブリタニクス』故に、銀行家ヘンリー・ホーア1世のストーヘッドハウス(右上図)の建築家として選ばれることになった。これはイングランド中で数多い同様な家屋に影響を与えたものとなった傑作だった。 デザインの新しい学派の最前線に立ったのが貴族で、「建築家伯爵」第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイルだった。1729年ボイルとウィリアム・ケントがチジックハウスを設計した。このハウスはパッラーディオのヴィラ・カプラを再解釈したものだったが、16世紀の要素や装飾を取り去っていた。この装飾が徹底して無いということが、パッラーディオ主義の特徴となった。 1734年、ウィリアム・ケントとバーリントン卿が、イングランドでもパッラーディオ建築の素晴らしい例の1つである、ノーフォークのホウカム・ホールを設計した。この家の本体部はパッラーディオの指示に極めて密に従っているが、パッラーディオの低く分離していることの多い農家のウィングがその重要性を増している。ケントがそれをデザインに付加し、家畜を消し、本館自体と同じくらいにウィングの重要性を増した。これらウィングはポルチコやペディメントで飾られることが多く、かなり後のそれ自体で小さなカントリーハウスであるケドルストン・ホールと似ている所が多い。イングランドのパッラーディオ主義がパッラーディオのオリジナル作品の模倣であることから変革することになったのは、この側面ウィングの発展だった。 建築様式は個々の施主の要求に合わせるために変革し変わっていく。1746年、第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルがウォバーン・アビーの建て替えを決断し、そのデザインとしてパッラーディオ様式を選択した。それは当時最も流行していたものだったからだった。ベッドフォード公はバーリントンの弟子だった建築家ヘンリ・フリッツクロフトを選んだ。フリッツクロフトのデザインは本質的にパッラーディオ様式であるが、パッラーディオ自身からはそうであると認められないものだった。本体中央部が小さく、柱間が3つしかなかった。神殿のようなポルチコは単にあるように見えるだけであり、閉鎖されていた。2つの大きなウィングには、農家を繋いでいたはずの壁あるいはコロネードの代わりに、大広間の広大な特別室が入っていた。建造物の外れにある農家は高さを上げて母屋と合わせるようにし、パッラーディオ様式の窓を置き、パッラーディオ建築であると見られるようにしていた。この様式の発展は、その後の100年間にイギリスの数多い家屋やタウンホールで繰り返された。ヴィクトリア時代はあまり好まれなくなっていたものの、1913年にアストン・ウェブがバッキンガム宮殿を改装するときに復活した。終端となる部分は閉じられたポルチコすなわち付け柱そのものとなることが多く、中央部と同じ興味を惹くか、それを補うものとなった。これは200年前のパッラーディオのデザインとはかなり遠く離れたものとなった。 イングランドのパッラーディオ家屋はもはや小さいが洗練された週末を過ごすものとなっており、それからイタリアの家屋が認識されるものになった。それらはヴィラではなく、建築史家ジョン・サマーソン卿の言葉では権力を示す「パワーハウス」であり、イギリスを支配したホイッグ党「地主階級」の権力を象徴的に示すものだった。パッラーディオ建築がイギリスを席捲するに連れて、数値比を考慮する考え方は消えてしまった。ウィングのある四角な家屋よりも、主要な考慮事項として長いファサードがあった。奥行きが一室のみであることが多い長い家屋は、その大きさについて誤った印象を与えるよう巧妙に仕組まれていた。
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