イングランドの北米・インドへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「イングランドの北米・インドへの進出」の解説
オランダ勢力によって東南アジア・東アジアから締めだされたイングランドは、17世紀、マドラス(チェンナイ、1639年)、ボンベイ(ムンバイ、1661年)、カルカッタ(コルカタ、1690年)と盛んにインドへ進出した。インドにおける主力商品は綿布と茶だった。ルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたインド綿布は爆発的な人気をよび、17世紀中葉以降のイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。茶は、のちに豊かになったイングランド人の国民的な飲料となっていった。 アメリカ大陸へは、1607年にヴァージニア会社によってヴァージニア植民地が設立されたのが、記録上最も古い成功例である。入植した約100人の男たちは、インディアンの攻撃から身を守るために高い柵で囲んだ三角形の町ジェームズタウンを建設した。しかし、最大の敵はむしろ病気と饑餓だった。このとき探検家ジョン・スミスがポウハタン・インディアンの娘ポカホンタスに助けられた武勇伝は有名であるが、当該者のポウハタン族は「全くのデタラメである」と完全否定している。ヴァージニア植民地議会が開設されたのが1619年であり、同年、タバコ栽培のために必要だとして、黒人奴隷の輸入を決めている。ヴァージニアは1624年には王領植民地となった。地域名は処女王エリザベスに、ジェームズタウンの名はジェームズ1世にちなむ。 ニューイングランドは、1616年にイングランドで入植者の募集がおこなわれたのが地域名の由来である。ジェームズ1世治下の1620年、ピルグリムファーザーズと呼ばれたイングランドのピューリタン(清教徒)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、プリマスの港に到着した。その後、1629年マサチューセッツ湾植民地、ニューハンプシャー植民地、1636年ロードアイランド植民地など各地に自治植民地がつくられた。1637年には北のヌーベルフランス、南のニューネーデルラントに対抗するため「ニューイングランド連合」が結成されている。 入植者たちは、インディアンに対しては、キリスト教の布教やヨーロッパで作られた製品、特に銃など金属製品の譲渡で大きな影響を与えた。銃は狩猟用で与えたつもりだったが、その数が増えれば特定の種族の力が上がり、他部族を追い払うか絶滅させるところまで成長した。イロコイ連邦がその例であるが、イギリスやフランスがその力を利用して植民地の主導権争いを続けたことも事実であり、それは現在も続く長い「インディアン戦争」の始まりでもあった。 植民地への入植初期に、特に海岸地方では見境もなく木を切り倒して暖房や家屋の建築に利用した。また、良い材木はヨーロッパ向けに輸出した。このために瞬く間に樹木を消失させ荒涼とした風景を現出させた地域があった。世界的に見ても森林破壊の初期の例である。これは後にペンシルベニアで製鉄業が起こってきたときに、工業燃料として森林を伐採することで繰り返されたが、石炭の利用の開始により何とかそれ以上の進展を食い止められた。 なお、1664年の第2次英蘭戦争の結果英領となったニューネーデルラントでは、中心都市ニューアムステルダムの名がニューヨークと改められた。これは、国王チャールズ2世が弟のヨーク公(のちのジェームズ2世)に与えた土地であることに由来している。
※この「イングランドの北米・インドへの進出」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「イングランドの北米・インドへの進出」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。
- イングランドの北米・インドへの進出のページへのリンク