イングランドのカトリック教徒の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 00:32 UTC 版)
「バイ陰謀事件」の記事における「イングランドのカトリック教徒の分裂」の解説
1603年時点のイングランドのカトリック社会においては、主席司祭論争(Archpriest controversy)と呼ばれる分断と論説の対立が、もう5年ほど続いていた。これは結果として、カトリック司祭たちの足並みをそろわせ、1603年の陰謀計画が実現不可能なものになったことと大きく関係しており、謀略を当局に通報するという考えも受け入れさせた。 世俗司祭のウィリアム・ワトソン(英語版)は、主席司祭論争において「控訴人」側に立ち、聖座から任命されたジョージ・ブラックウェル(英語版)主席司祭(英語版)と対立した。ワトソンの極論は、イングランド政府や教会から重宝され、当時のロンドン大主教リチャード・バンクロフト(英語版)の庇護を受けた。1601年9月にはワトソンはフラム宮殿(英語版)に滞在していた。1602年には留置場に収監されたが、バンクロフトとは緊密に連絡を取り合っていた。 バイ陰謀事件を最初に暴いたのは、首謀者ワトソンの対立相手であったブラックウェルや、ジョン・ジェラードとヘンリー・ガーネットの2人のイエズス会の神父であった。この3人は、それぞれ独自のルートで陰謀に関する情報を当局に通報した。これは単に論敵の策謀だったからという理由に留まらず、世俗司祭の政治的動機に疑念を抱き、また計画が失敗した場合にカトリック教徒が被るであろう報復被害を恐れたたためであった。
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