イングランドによるアイルランド侵攻と教皇勅書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 07:46 UTC 版)
「ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)」の記事における「イングランドによるアイルランド侵攻と教皇勅書」の解説
アイルランドのケルズ(英語版)で教会会議(Synod of Kells)が開かれた3年後の1155年、ハドリアヌス4世は "Laudabiliter"(ラウダビリテル)と題する教皇勅書によってアンジュー朝のイングランド王ヘンリー2世に対してアイルランドを攻めることを許可し、カトリックの制度にもとづいて教会の統治と改革を進め、アイルランド全島の教化を図るよう促した。この勅書の真正性について、歴史学者エドムント・カーチスは「歴史上非常に大きな謎」であるとしている。カーチスによれば、イングランド南部のウィンチェスターで開かれた御前会議でアイルランド攻めが話題にのぼったとき、ヘンリー2世の母親である皇后マティルダはこれに反対したという。ノルマン出身のアンジュー朝がイングランド全土からウェールズへと西に向かって勢力を伸ばしているにもかかわらず、アイルランドではこれについて関知していないかのように何ら対策が取られていなかった。アーネスト・F・ヘンダーソンは、この勅書の真正性については多くの疑問が投げかけられているが、この時期に何らかの書面が出されたことは間違いないという。また、パトリック・サーズフィールド・オヘガーティはこの勅書の真贋は明らかではないが、ヘンリー2世がこの勅書にもとづいて行動したことには変わりなく、ハドリアヌス4世の後継者によってこの勅書が否定されることもなかったと指摘している。
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