イングランドにおける反逆罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:38 UTC 版)
「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」の記事における「イングランドにおける反逆罪」の解説
中世盛期のイングランドにおいては、反逆罪を犯した者は引きずり刑や絞首刑などの様々な方法で罰せられた。13世紀には、内臓抉り、火炙り、斬首、四つ裂きなどのより残忍な刑罰が導入された。13世紀のイギリスの歴史家マシュー・パリス(英語版)は、1238年にヘンリー3世を暗殺しようとした「とある武装した学のある男(大郷士の資格を持つ学者、armiger literatus)」のことを記録している。この中で暗殺者は「引きずり刑を受けてバラバラになった後、斬首され、その死体は3つに分けられた。それらはイングランドの主要都市に一つずつ引きずり回された上で、強盗に使われる晒し台に吊るされた」と、どのように処刑されたかを詳細に残している。この暗殺者は王室の庇護下にあった男を殺してランディ島へ逃亡した無法者ウィリアム・デ・マリスコ(William de Marisco)によって送られた者と思われた。デ・マリスコは1242年に捕らえられ、王命によりウェストミンスターからロンドン塔へ引きずり刑を受けた後に、そこで処刑された。まず、絞首刑に処されて死亡が確認された後、内臓をえぐり出され、焼かれ、そして四つ裂きにされ、それら死体の断片はイングランドの主要都市に送られた。こうした刑罰はエドワード1世の時代に、より頻繁に記録が残っている。 ウェールズのダヴィズ・アプ・グリフィズ(英語版)は国王に反旗を翻し、ウェールズ王子とスノードン公を名乗ったが、捕らえられ、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を受けた最初のイングランドの貴族となった。ダヴィズの反乱はエドワード1世を激怒させ、過去に例のない厳罰を要求した。この結果、1283年の彼の拘束と裁判の後、まず反逆罪で馬による引きずり回し刑で処刑場へと連行された。そしてイングランドの貴族を殺した罪により生かされたまま首を吊られた。次にその貴族殺しを復活祭に行った罪により、内臓抉り及び、取り出した臓物を焼く刑が執行された。そして、国中の様々な場所で王殺しを企てた罪により、その遺体は四つ裂きにされて国中に送られ、頭部はロンドン塔の上部に置かれた。同様の運命を辿って苦しみを与えられたのがスコットランド反乱の指導者であったウィリアム・ウォレスであった。1305年に捕らえられ裁判にかけられた彼は月桂樹の王冠を被らされて晒し者にされた後、平民に対する処刑地であったスミスフィールドへの引きずり回しを受け、そこで絞首刑にされて断首された。その後、取り出された内臓が焼かれ、四つ裂きにされた。頭部はロンドン橋にて晒し首となり、残りの部位はニューカッスル、ベリック、スターリング、パースに送られた。
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