イングランドにおけるカペー朝
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「アンジュー帝国」の記事における「イングランドにおけるカペー朝」の解説
詳細は「第一次バロン戦争」を参照 1215年にイングランドの有力諸侯(バロン)達はジョンが自ら署名したばかりのマグナ・カルタの協定を尊重していないことを確信してフランスの宮廷に手紙を送り、王太子ルイにイングランドの王冠を差し出した。11月までにカペー家の軍隊は謀反人を助けるためにロンドンへ送られた。1216年5月22日、ルイ自身が率いたカペー家軍がサンドウィチに上陸した。ジョンが逃亡したことでルイがロンドンとウィンチェスターを占領できた。8月までにルイは東イングランドの大半を支配下に置き、僅かにドーバー、リンカン、ウィンザーのみがジョンに忠実であった。スコットランド王アレグザンダー2世はカンタベリーまで旅をしてルイをイングランド王と認めて臣従したりさえもした。 ジョンは2か月後に死去したが、イングランドにおいてすら負けていた。ジョンが署名したマグナ・カルタによって法的に設置された摂政職は、その時点までは適用されていなかったが、ヘンリー3世が余りにも幼過ぎたため設置された。この時、アングロ・ノルマン系の貴族達はルイからの支援を取り消していた。ルイは約1年後リンカンとサンドウィッチで敗北したことにより1217年9月のラムベス条約でイングランド王位への要求を取り下げていた。ノルマン系貴族は忠誠(誰を主君とするか)を巡って分裂したが、ノルマンディーとイングランドが大陸の切れ目で切断された一方、ブルターニュではブルターニュ公がリッチモンド伯になるという形でフランス王家の統制外という形でイングランドと関係を持ち続け、二重の忠誠を誓っていた。フランス王家の一員であるドルー伯ピエール1世はブルターニュ公位を獲得し、その後継者達は同時にリッチモンド伯となることで「リッチモンド諸封」と呼ばれる重要な封土を保有し続けた。この封土はトレント川以北のイングランドに拠点を置き、ブルトン人の設置はノルマン人がトレント川以南のイングランドに設置したのに匹敵するようになり、次第にイングランド全域に広がった。アンジュー家はこのブルトン人の封土を着手再授封することもあった。最初はサヴォイア伯ピエトロ2世を行政の長とし、それは、ランカスター家が授封されるまで続き、最終的にはウェストモーランド伯が借り受けることになり、カペー家をイングランドから追い出すことに成功した。 『カペー朝期のフランス(987年-1328年)』からアンジュー帝国崩壊の原因を要約してみよう。 12世紀後期のプランタジネット家の土地については大抵以下のことが言われてきた。帝国が傾き、ヘンリー2世の息子達の反乱で領土は分裂し、リチャード1世とジョンは苦労しつつ再統一を行った。再統一の試みはプランタジネット家の財源を過度に消耗させ、権力の土台を破壊させ、一つの政治単位として存続することを困難にさせた。これらのことからフィリップ2世の征服は避け難いものであり、ジョンの責任は限りなく激減される。
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