ウィトルウィウス・ブリタニクス
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「コーレン・キャンベル」の記事における「ウィトルウィウス・ブリタニクス」の解説
キャンベルの主要な出版物として「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(Vitruvius Britannicus, or the British Architect... ) が挙げられる。本著は1715年から1725年にかけて全3巻で発行された。(さらに続編がジョン・ウルフィー (John Woolfe) とジェームズ・ガンドン (James Gandon、1743年-1823年) (英語版) により編集され、既に有名になっていたタイトルを使って1767年と1771年に出版された。) エリザベス朝において発行されたジョン・シュート (John Shute、1563年没) (英語版) による「First Groundes 」以来初めてのイングランドの建築作品集である。経験論の流れをくみ、研究論文ではなく基本的にデザインカタログであり、イニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年) やクリストファー・レン (Christopher Michael Wren、1632年-1723年) 、及びキャンベル自身やその他のその時代における主要な建築家達によるイギリスの建築物の凹版画が掲載されている。 キャンベルは導入部や概要において、バロック様式の「無駄」について持論を展開し、イギリス建築の諸外国からの独立を宣言した。また彼はその巻をハノーヴァー朝のジョージ1世 (George I、1660年-1727年) に捧げた。1725年に発刊された第3巻には、急速に時代遅れになりつつあったバロック様式による、樹木の生い茂った農園を通って裁判所やパルテール (幾何学的にレイアウトされた装飾花壇) (英語版) に通じるまっすぐな並木道のある、庭園や公園の全体のデザインがいくつか収録されている。 建物は平面図 (plan) や断面図 (section) 、立面図 (elevation) で示されたが、いくつかは俯瞰視点によるものだった。この本に掲載された図面やデザインは、キャンベルが思索的な枠組みに組み込まれる以前のものであった。「ウィトルウィウス・ブリタニクス」の成功は18世紀のイギリスやアメリカにおけるネオパッラーディオ建築の普及に大きな役割を果たした。例えば本著の図16、ロンドンにあるサマセットハウスのレンダリングは、アメリカの建築家ピーター・ハリソン (Peter Harrison、1716年-1775年) (英語版) が1761年にロードアイランド州ニューポートのブリックマーケット (Brick Market) (英語版) を設計する際にインスピレーションを与えた。 キャンベルは、全盛期には極めて卓越したスコットランドの建築家で、キャンベルに「スコットランドにおいて最も経験豊富である。」「と言われた初期のネオパッラーディオ主義者のジェームズ・スミス (James Smith、1645年-1731年) (英語版) からまるで若者のように影響を受けた。 素晴らしいレンダリングの版画が掲載された幾分商業的な本著は、ホイッグ党による寡頭政治の中、カントリーハウスやヴィラのブームの始まりのちょうどいいタイミングで出版された。キャンベルはすぐに第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル (Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington、1694年-1753年) に採用された。伯爵はバーリントンハウスでのジェームズ・ギブス (James Gibbs、1682年-1754年) (英語版) の役割をキャンベルと交代させ、彼自身がイギリスのネオパッラーディオ建築の中心になることとした。1718年キャンベルはクリストファー・レンに替わって王室建設局 (Royal Board of Works) (英語版) のサーベイヤー・ゼネラル (Surveyor General、王室建設局の最高技監の職名) (英語版) となったウィリアム・ベンソン (William Benson、1682年-1754年) (英語版) の代理人に任命されたが、この採用はバーリントン伯爵の推薦によるものだった。しかし在任期間は1年と短く、ベンソンが建設局を去る時キャンベルもそれに従った。
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