ウィトルフ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:02 UTC 版)
「エルンスト・テールマン」の記事における「ウィトルフ事件」の解説
1928年になるとスターリンの指示でコミンテルンは再び左旋回した。これは左派の政敵を片付けたスターリンが、続いてブハーリンら右派の政敵の排撃を開始し、ネップの中止、五カ年計画の開始という左派コースを取り始めたためである。ブハーリンはジノヴィエフ解任後にコミンテルンの第一人者となっていたため、その影響はすぐにコミンテルンとその支部(各国の共産党)に波及した。 早くも1928年2月のコミンテルン執行委員会拡大総会でドイツ共産党とソ連共産党の間に秘密協定が結ばれ、その中で「右派共産主義者は主敵である」と宣告された。左旋回が公然化されたのは1928年7月から8月にかけての第6回コミンテルン世界大会だった。テールマンはそれに従って右派と調停派を計画的にポストから追放していった。 追いつめられた右派と調停派はテールマンに近いハンブルク地区党書記・中央委員ヨーン・ウィトルフ(ドイツ語版)が党の公金を横領し、テールマンがそれをもみ消した事件を中央委員会で取り上げることで反撃に打って出た。1928年9月25日と26日の中央委員会は調停派エーベルラインや右派エーリヒ・ハウゼン(ドイツ語版)らの主導でテールマンに有罪判決を下し、テールマンの職務の停止を決議した。 しかしここでスターリンが介入し、テールマンを失脚させてはならぬとの指令がヘルマン・レンメレ(ドイツ語版)を通じてドイツ共産党に下され、10月6日にはコミンテルン執行委員会幹部会もテールマン復権を決議している。中央委員の大多数は、このモスクワからの圧力に怯え、テールマンの職務停止を解除するとともに「右派と調停派はハンブルク事件を利用した」とする決議を出した。スターリンとテールマンは間髪入れず右派と調停派に対して殲滅的攻撃を開始し、右派と調停派はことごとく中央委員会から叩き出され、テールマン、レンメレ、ハインツ・ノイマン(ドイツ語版)の「三頭政治」が党を引き継いだ。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ヘルマン・メンメレ(左)とハインツ・ノイマン(右)
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