ウィトゲンシュタインによる批判 語りえない
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ウィトゲンシュタインによる批判 語りえない」の解説
詳細は「検証主義」、「ウィーン学団」、「論理実証主義」、「分析哲学」、および「語りえないものについては、沈黙しなければならない」を参照 オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年 - 1951年)は1921年に出版された著作『論理哲学論考』の中で次のように記している。 世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である。 — ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』(1921年) 6. 44、土屋賢二訳 ウィトゲンシュタインにとって世界とは「起きていることのすべて」、「事実の総体」を指す。つまり「どういった事実が成立しているのか」ではなく「なぜそもそも何らかの事実が成立しているのか」ということを彼は、謎である、とした。しかしこの問題について言語による説明が何か可能であるのかについては、ウィトゲンシュタインはこれを「語りえないもの」のひとつと見ていた。1929年にウィトゲンシュタインは次のように語っている。 私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない、われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ。 — シュリック家での談話、ハイデガーについて (1929年末)、木田元 訳 ヴィトゲンシュタインの考え方は、検証原理(verification principle)という形を取って、以降の哲学の流れに大きい影響を及ぼす。検証原理とは、問いが真性のものであるためには、解答がなければならないし、また提出された解答が正しいかどうかをチェックすることができる(つまり検証できる)という事が必要である、という考えである。そして解答が出せない問題や、出された解答の真偽が検証ができない問題というのは、擬似問題であり、関わりあうべき問題ではない、という態度を含意する。こうした考え方は、論理実証主義、そして分析哲学という形で、以降、大きい流れとなって、西洋哲学に大きい影響を与える。これにより形而上学は厳しい批判にさらされる。当記事のような形而上学の典型とも言えるような問題は、それについて議論すること自体が強い批判にさらされることとなる。
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