フォルカークの戦い
フォルカークの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:16 UTC 版)
「ウィリアム・ウォレス」の記事における「フォルカークの戦い」の解説
ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続けたし、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた。 エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い)。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、バデノッホ卿(英語版)ジョン・カミン率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた。
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