フランスやローマで交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:16 UTC 版)
「ウィリアム・ウォレス」の記事における「フランスやローマで交渉」の解説
この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いたスコットランド議会で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した。 この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、フランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している。ローマへはセント・アンドリューズ司教(英語版)ウィリアム・ド・ランバートン(英語版)と共に行き、ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し「スコットランドはローマ教皇の権威の支配下にある」「スコットランドとイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」とする宣言を出すとともに、エドワード1世にジョン・ベイリャルの釈放とその身柄をローマ教皇の権威に引き渡すことを命じた。フランス王フィリップ4世からは金銭的な手当てといくつかの称号と地所を与えられたというが、ウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国した。 一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧に成功した。
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