フランスを経てイギリスへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)
「カール・マルクス」の記事における「フランスを経てイギリスへ」の解説
6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通り(フランス語版)に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた。 この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党(フランス語版)の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)。 この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地(フランス語版)の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた。 ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった。
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