勝利の報告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:02 UTC 版)
「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事における「勝利の報告」の解説
ドイツ兵がモンゴル軍に大勝利したという噂は、確実な裏付けがないにも関わらずエジプト、アルメニア、イスラム圏のスペインにまで広がっていた。『History of the Patriarchs of Alexandria』や『Chronological History of Mekhitar of Ayrivank』に言及されている。コリゴス侯ハイトン(英語版)の『東方史の華』には、オーストリア公爵とボヘミア王がドナウ川でモンゴル軍を撃退し、バツは溺死したと記されている。また、『Liber secretorum fidelium crucis』もドナウ川でのオーストリア公の勝利を示唆している。イブン・サイード・マグリビーの『Kitāb al-jughrāfiyya』には、ドイツとハンガリーの連合軍がシベニクの近くでモンゴル軍を破ったと記されている。マシューはコンラート4世とその弟であるサルデーニャ王エンツォがデルフェオ川(恐らくははドニエプル川)のほとりでモンゴル軍を破ったと述べている。 後のモラヴィアの歴史書では、1241年のモンゴル軍の侵攻はバーベンベルク継承戦争の一部である1253年のハンガリー軍の侵攻と混同されている。これは、ハンガリー軍に異教徒のキプチャク人が含まれていたため、モンゴル軍と混同されたものと考えられる。この時、ハンガリー軍はオロモウツを包囲した。ヴァーツラフ・ハジェックのチェコ年代記(1541年)では、オロモウツでのハンガリー軍の勝利が敗北に変えられており、モラヴィアの指導者はシュテルンベルグのヤロスラフとなっている。当時のシュテルンベルグ城(英語版)の実質的な城主はズデスラフで、その息子のヤロスラフは軍事行動に参加するには若すぎたのだとみられる。ヨハネス・ドゥブラヴィウスの『ボヘミア王国史』(1552年)では、オロモウツの包囲は1241年のことで、モンゴル軍の仕業とされている。後世の歴史家はこれらの記述を組み合わせて、シュテルンベルグのヤロスラフがオロモウツの前でモンゴル軍を撃破し、バイダルを殺害した国民的英雄に仕立て上げた。実際には、1246年の時点でバイダルは存命であった。
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