がん発病と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:02 UTC 版)
1996年11月に肝細胞がんであることを告白。3年間のガンとの闘いの中、ライブ開催やCDの発売など活動を続けた。池田は「どうしても娘が3歳になるまでは生きなければいけない。3歳になれば、覚えていてくれる」と語った。また、闘病や、闘病中のミュージシャンとしての活動を『スーパーテレビ情報最前線』(日本テレビ)が張り付き取材し放送するなど、話題となった。 1999年にみうらじゅんプロデュースのもと、みうら、いとうせいこう、山田雅人ら多くの友人が詰め掛けたレコーディングを行い、娘に向けたメッセージを歌にしたシングル&アルバム「MiYOU」を発売。「大生前葬」と称したライブを2回開催し、池田本人もライブ終了後に「ライブをやる前は、これで死んでもいいと思っていたけど、終わってみると、またやりてぇな、と」とコメントするなど、やせ細った身体で精力的に活動したものの、12月25日に死去。享年36。娘の美夕はまだ1歳10カ月であり、「娘が3歳になるまで生きる」事は叶わなかった。 「行かなくてもいいんじゃないか。ずっと一緒にいたいんだ」が最期の言葉だった。奇しくもその年に自身がファンであった中日ドラゴンズはリーグ優勝し、優勝決定試合後のビールかけにも参加していた。葬儀は12月27日に名古屋市千種区の大乗寺大乗殿で執り行われ、花園ラグビー場では池田の母校である愛知県立千種高校が全国高校ラグビー大会の初戦である1回戦を迎え、出棺直前に現地から1回戦勝利の報告が入った。法名は貴尊院釋龍音。 その後、池田の柩は八事霊園斎場で火葬され、遺骨は翌年3月頃に平和公園へ納骨されたという。墓は西別院の区画に建てられている。
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